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ブックマーク / note.com/obakeweb (13)

  • 「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND3|obakeweb

    倍速鑑賞について、私が当初考えていたことはこうだ。 作者の意図するところではないやり方で鑑賞することは、ふつうは、美的に落ち度があり、道徳的に落ち度がある。つまり、ちゃんと見れておらず、失礼である。〈見るからにはちゃんと見るべし〉も〈失礼なことはするな〉ももっともらしい規範なので、ふつう、倍速で見ることは美的・道徳的な非難に値する。ふつう、映画を倍速で見ることはわるいのだ。 しかし、「ふつう」と書いたように、これらの落ち度を打ち消すような要因がある。鑑賞が回復可能な場合、つまり等速で見た場合にキャッチしたであろう事柄を十分キャッチできる範疇での鑑賞である場合(そうかどうかは個人の認知能力の問題)、ちゃんと見れてないわけでも失礼でもない。方法としてちゃんとしていようがいまいが、結果として同じものをキャッチしたのであれば、総合的にはちゃんと見れているし、失礼でもない。なので、美的な非難にも道徳

    「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND3|obakeweb
    o_secchan
    o_secchan 2024/08/13
  • 見たこともない絵画を「美しい」と言ってなにがまずいのか|obakeweb

    タイトルは反語。以下では、まずくない、という話をする。 1 直面原理について私たちは、絵画や音楽映画や服や風景などについて、美的判断を下している。つまりは、「Xは美しい」「Yは醜い」といったことを考えたり言ったりしている。美的な観点からアイテムを評価しているのだ。あったかい服でもダサければ選ばないし、美しい風景なら苦労してでも見に行くという風に、美的判断は生活における選択を左右している。 美的判断というのは美学という学問のコアを成す主題(と言ってもよいだろう)だが、これをめぐっては強く支持されている原理がある。 直面原理[Acquaintance Principle] 直接の経験に基づくことなく、美的判断を下すことはできない。 その目で見てないならある絵画が優美かどうかは分からないし、その耳で聞いてないならある曲がかっこいいかどうかは分からない。読んだこともないのに『ユリシーズ』は壮大だ

    見たこともない絵画を「美しい」と言ってなにがまずいのか|obakeweb
  • 「ダサい」の美学:ダサい服はダサい人を前提とする?|obakeweb

    以下は、「ダサいという美的用語についてなんか書く」という、自分に課した大喜利への回答である。 「美しい」や「醜い」と同様に、「ダサい」はさまざまな用法で使われうる。そのなかには、記述的要素がなく純粋に評価的な用法や、とくに美的でない用法など、放っておいてかまわない用法がたくさんある。放っておきたくないのは、次のような用例に現れる「ダサい」である。 「この服はダサい」「これはダサい服だ」 ここでは、記述的な内容をもった美的性質としてのダサさが、個別のアイテムへと帰属されている。おそらく、これがダサいの最もベーシックな用法だろう。 一方、「ダサい」はダサいアイテムを選択したり使用する人に対して使われることもある。 「あいつは服のセンスがダサい」 ここでは、その人の美的センス、趣味、感受性が非難されている。しかし、センスの良し悪しについての判断が美的判断なのかどうかは論争的な点であり、したがって

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  • 芸術作品を批評する芸術作品|obakeweb

    《グノシエンヌ》というのは、多くのサティ作品の例に漏れず、ずいぶんと変な作品である。小節線で区切られていない五線譜の上にミニマルな伴奏とメロディが配置されており、ところどころに意味不明な指示がメモされている(「舌に乗せて」「頭を開いて」など)。その謎めいた雰囲気は、ジョルジョーネの絵画《嵐》が持つそれときわめて似ている。 私がより模範的だとみなしているのは、例えば、パスカル・ロジェ[Pascal Rogé]の演奏する《グノシエンヌ》(1984)だ。ロジェの《グノシエンヌ》は音の粒がはっきりとしており、ときおり発作的に前のめりになりつつ、小気味よく進行する。「軽快な」「明瞭な」「いたずら好きな」といった美的用語にふさわしい演奏である。(アルバムのアートワークに使わているジョアン・ミロの絵画も、これらの美的性質にフィットしている。) 一方、ラインベルト・デ・レーウ[Reinbert de Le

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    o_secchan
    o_secchan 2024/01/20
  • 「批評」を定義するという課題|obakeweb

    批評の定義について。「定義」というのは、やや問題含みなところがあるので、私は「特徴づけ」という表現の方をより好んでいるが、まぁやること同じだ。すなわち、批評という活動(ないしその産物)に特徴的で、その他の活動(ないしアイテム)から批評を区別する要素とはなんなのか、に答えるのだ。芸術に関連した言説はいろいろある(広告、美術史、芸術哲学、キャプションなど)が、そのうちどれがなぜ批評に該当するのか。単純化のために、これらの課題については以下ではとにかく「批評の定義」と言うことにしよう。(また、「批評」はすべて芸術批評を指す。) エントリーは、前半と後半で異なる目的を担っている。第1節、第2節までは短いが教育的意図において書かれたものであり、第3節、第4節は、より特定的な話題に対する私のステートメントである。勉強したい人は1〜2節を読めばよいし、そうでない人は3〜4節だけ読んでもよい。 1 分析

    「批評」を定義するという課題|obakeweb
  • 芸術的価値についてどのような立場があるのか|obakeweb

    芸術の価値や芸術的価値について調べているが、Internet Encyclopedia of Philosophyのエントリーに立場一覧があって面白かったので、簡単な補足を入れつつ&ちょいちょい修正しつつ一通り訳してみた。元エントリーを書いているのはリヴァプール大学のHarry Drummond。 まず大前提として、「芸術の価値[value of art]」と「芸術的価値[artistic value]」はふつう区別される。前者は、ものとしての芸術作品が持ちうる任意のタイプの価値であり、彫刻がドアストッパーに役立ったり、絵画が燃やして暖を取るのに役立つといった価値も含んでいる。一方、後者は芸術作品の芸術としての[qua art]価値であり、芸術ならではの価値であり、ふつう芸術家や批評家や鑑賞者が気にするような価値のことだ。 問題はその線引きなのだが、はっきりと一種類の価値まで絞る一元論者と

    芸術的価値についてどのような立場があるのか|obakeweb
  • 2022年に聴いてたK-POPいろいろ|obakeweb

    すっかりK-POPの話をしなくなったのだが、実は最近また熱心に聴くようになってきた。振り返ってみれば2022年はK-POP(のうち、私の聞いているヨジャドル界隈)にとって、直近3年で見て最も豊作な年だったと言っても過言ではないだろう。 流れ変わったなと思わせたのは、春先に(G)I-DLEが出した「Tomboy」だ。2021年のいざこざで、誰もが認めるエース・スジンが脱退したときにはもう正直おしまいだと思っていた。のだが、こんなに自信満々でやりたい放題なカムバを誰が予想しただろうか。ギター!ギター!ギター!なあまりにも懐古的なサウンドに、パンキーなビジュアル、当たり前のように車も大爆発だ。Melon Music Awardsでの放送禁止ワード解禁のアレンジバージョンも最高だった。こんなのはバズって当たり前なのだ。 「Tomboy」によって、ガールクラッシュというコンセプトはひとつの山を迎えた

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  • ジャンル研究の方法論②|obakeweb

    相変わらず、「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」式の研究の正解は分からないが、ここ一年でジャンル論についてはいろいろと読み、論文も書いているところなので、専門トピックのひとつに「ジャンル」を数えてもよい頃だろう。同じく、ジャンル概念に関心を向けているローン・スター大学のEvan Maloneによる論文「ジャンル爆発の問題[The Problem of Genre Explosion]」を読んできたのでご紹介。 ホラーとはなにか、SFとはなにか、といった個別ジャンルの哲学も気になるが、それらをまとめあげている「ジャンル」とはそもそもなんなのか。 ジャンルの諸理論Maloneの整理によれば、既存のジャンル理論はおおきく分けて3つある(2つ目は1つ目の一種なので、厳密には2つ)。以下Maloneの紹介を手がかりに、それぞれ定式化してみよう。 特徴説:ジャンルとは、一連の特徴を共有する作品群を

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  • ジャンル研究の方法論|obakeweb

    「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」「SFとはなにか」みたいな問いがある。別にホラーでもサスペンスでもマジックリアリズムでもなんでもよいのだが、「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」を問うときには、ざっとふたつの回答がある。 一方は、ジャンルの特徴を挙げるような回答だ。これはしばしば、必要十分条件によって提出される。「SF作品とは特徴Fを持った作品であり、特徴Fを持たない作品はSFではない」といった説明だ。 他方は、ジャンルの伝統を記述するような回答だ。「ヴェルヌとウェルズに始まる特定の歴史的系列に連なる作品群こそが、SF作品である」など。 Terrone (2021)は、前者のアプローチを「概念としてのジャンル[Genres-as-Concepts]」、後者のアプローチを「伝統としてのジャンル[Genres-as-Traditions]」と呼んでいる。SFだと、Suvin (197

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  • 美しさを見てとるために訓練が必要であるとはどういうことか|obakeweb

    美的性質や美的知覚について、最近出版されたマドレーヌ・ランサム[Madeleine Ransom]の論文がとてもよかったのでまとめておく。 1 前提:美的知覚美的性質[aesthetic properties]とは、「美しい」「優美だ」「けばけばしい」「退屈だ」「バランスが取れている」など、われわれが芸術作品や自然の風景について語るときによく言及する性質のことだ。こういう性質を見てとったり聞いてとることを美的知覚[aesthetic perception]と呼び、「このモネの絵はバランスが取れていて美しい」みたいなことを言ったり書いたりすることを美的判断[aesthetic judgement]と呼ぶ。 フランク・シブリー[Frank Sibley]の影響下において、分析美学では美的性質に関してふつうふたつのことを前提する。 第一に、対象が美的性質を持つのは、一連の非美的性質を持つおかげで

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  • 作者の意図とその証拠|obakeweb

    作品解釈における意図の話は、定期的に浮上するので、みんな好きなんだなぁと実感する。最近もろもろを読んで整理できたことをいくつかまとめておこう。なかなか進展の見えない話題だが、なんらかの役には立つだろう。 村山さんの紹介しているMatraversの議論はかなり腑に落ちるものなのだが、補助線として以下の話をしておくとなおよしかもしれない。すなわち、意図論争においては、大きくふたつの(結びついてはいるが)異質な問いが与えられている。 存在論的問い:作品の正しい意味は、作者の意図によって決まるのか。認識論的問い:正しい解釈が参照すべき証拠はなにか。しばしば想定され、ボコボコにされる類の意図主義とは、前者の問いに対し「作者の意図だけで決まる」と答え、後者の問いに対し「作者の発言、日記、インタビューなどを片っ端から調査すべし」と答える。それじゃあ、もう批評じゃなくて伝記じゃん、というので反意図主義者た

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  • 映画を倍速で見ることのなにがわるいのか|obakeweb

    以下は2020年3月に書いたまま放置していたドラフトだ。ちょうど『現代ビジネス』で同じ話題を扱った記事がバズっていたので、この機に多少手を加え、成仏させておく。 上の記事で問題視されている「「10秒飛ばし」で観る」「1.5倍速で観る」のうち、私は後者のみを擁護するつもりだ。「10秒飛ばし」を含む鑑賞は、あとで論じる「回復可能な鑑賞」に該当しないと考えられる点で、私にとっても「わるい」鑑賞である。よってそちらは問題とせず、倍速鑑賞のみを問題とする。 また、上の記事はこれら不適切な鑑賞がはびこっている原因に関して「①作品が多すぎること」「②コスパが求められていること」などを指摘しているが、社会的な風潮の分析も稿の関心事ではない。稿が問題とするのは、「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」という美学的問いのみである。 ―――――――――― 映画を倍速で見ることのなにがわるいのか タイトルは

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  • ドラゴンファンクの5000年:存在論、美学、今後の展望|obakeweb

    2019年3月ごろより、Twitter上を中心に「ドラゴンファンク(Dragon Funk)」と呼ばれるジャンルがにわかに注目を集めている。当ジャンルの実態についてはさまざまな論者が断片的に物語っているものの、多くのことは明らかになっていない。 稿ではジャンルを取り巻く言説分析と仮説検証を通して、ドラゴンファンクの内実を明らかにする。 1.ドラゴンファンクの存在論1.1.ドラゴンとはなにか、ファンクとはなにかまずはドラゴンファンクを構成する2つの要素、「ドラゴン」と「ファンク」について確認しておこう。それぞれ、慣習的に受け入れられている字義通りの意味としては以下のようになる。(大辞林より抜粋) ドラゴン【dragon】 ヨーロッパにおける架空の動物。翼と爪とをもち、火を吹く巨大な爬虫類とされる。邪悪の象徴とされることが多い。竜。飛竜。 ファンク【funk】 ジェームズ・ブラウンが1960

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