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criticismに関するoptical_frogのブックマーク (18)

  • 田中秀臣「マンガ批評マップ2010」 - ビジスタニュース

    田中秀臣「マンガ批評マップ2010」 2010年02月09日22:56 担当者より:経済学者の田中秀臣さんに、日のマンガ批評の現在について書いていただいたものをアップいたしました。現状の見取り図としても非常に有益な内容になっているかと思いますので、ご一読ください。 配信日:2010/02/03 ゼロ年代最後の一年は日のマンガ批評にとっては興味深い年になった。まず国際的なイベント「世界のコミックスとコミックスの世界――グローバルなマンガ研究の可能性を開くために」が開催された。内外のマンガ研究者を結集させたイベントは参加者にはそれなりの刺激になったことだろう。 上記のイベントで基調講演を行ったフランスのマンガ研究者ティエリ・グルンステンを中心にしたシンポジウムに私は参加した。特にグルンステンの『マンガのシステム』(2009年、青土社、野田謙介訳)をめぐる日のマンガ研究者(伊藤剛、竹

  • Life番外編 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」Part3 (文化系トークラジオ Life)

    文化系トークラジオ Life TBSラジオFM90.5、AM954にて、偶数月の最終日曜日25時~生放送!出演は鈴木謙介ほか。

    Life番外編 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」Part3 (文化系トークラジオ Life)
  • Life番外編 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」Part2 (文化系トークラジオ Life)

    エヴァ「破」の収録メンバー 出演:charlie(鈴木謙介)、斎藤哲也、速水健朗、伊藤聡 スペシャルゲスト:稲葉振一郎 ※再生できない場合は、個別ページかTBSラジオクラウドにてお聞きください。 ※最新エピソードはユーザー登録なしでお聴きいただけます。 ====== Windows Liveの「文化系トークラジオ~Lifeリスナーグループ」が、 上限の1000名に達してしまった件ですが、とりあえず「グループ2」を作ってもらいました。 外伝や番外編のウェブ中継のURLなどはグループ2のトピックでもお伝えします。 ↓の「文化系トークラジオ Life リスナーグループ2」 http://life954-2.groups.live.com/ Windows Liveに未登録の方はまず↓から登録してください。 http://clk.atdmt.com/GBL/go/152853697/direct

    Life番外編 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」Part2 (文化系トークラジオ Life)
  • Life番外編 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」Part1 (文化系トークラジオ Life)

    文化系トークラジオ Life TBSラジオFM90.5、AM954にて、偶数月の最終日曜日25時~生放送!出演は鈴木謙介ほか。

    Life番外編 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」Part1 (文化系トークラジオ Life)
  • なぜ、アニメは感想と批評の境界があやふやなのか - まっつねのアニメとか作画とか

    前回のブクマレスを兼ねて、 ブコメの情報を取り入れてみた。 Q、なぜ、感想と批評の境界があやふやなのか A、 第一に、話題にすべき要素が多く、ただの感想に見えにくい(前回から流用) 第二に、批評のハードルが低い →なぜ批評のハードルが低いのか? ?一見、批評のためのヒントが多い(=簡単そう) ?先人が少ない(=難解な批評用語が少ない) ?原作との比較でお手軽批評(原作モノ限定) 第三に、感想に自分語りが混じって、批評っぽく見える(実際にはただの感想) ・批評と感想 批評と感想の違いは客観的か主観的かの差だと思います。 客観自体が存在するか、とかの哲学的な問いはスルーします。 つまり、批評というのは、 あるかないかも分からない、その作品の「客観的な評価=正解」 を探る作業だと思うわけです。 まあ宝探しみたいなものですね。 zsphereさんの言うように、そんな宝はないのかもしれない。 「漱石

    なぜ、アニメは感想と批評の境界があやふやなのか - まっつねのアニメとか作画とか
  • 2009.4.25 - 日記

    子供の頃、学校で絵を描かされるのは最大の不愉快であった。まあ、どこまで頑張っても特殊学級行きを勧められるような代物しか描けないことが不愉快の原因の第一ではあったが、原因の第二は、子供心にも首を傾げざるを得ないような教師の偏向にあった。たとえ私が完璧なデッサンを描けたとしても、花丸は絶対に無理だっただろう。何故なら教師御推薦の絵というのは ・水彩ながら絵の具はこてこてに分厚く塗る。筆跡が残るくらいがよろしい。後にはペインティングナイフでなすり付けることが推奨であった。 ・色はひたすらにどどめ色、というか、混ぜて混ぜて灰色・茶色、くらいが望ましい。当然、明度も彩度も限りなく低い。 ・題材は労働者や農民、工場風景が望ましかった。風景画を描く場合も、美しい自然よりは厳しく貧しい自然が御推奨であった。家庭を描く時には、ひたすらビンボーな暮らし向きでなければならなかった。 ・けして、古典主義的な意味で

    2009.4.25 - 日記
  • 佐藤亜紀 日記: 2009.3.29

    ごく一握りの誠実で有能な方を除いて——と言うことにしておこう、皆無と言う訳じゃない——現在日で文芸評論家として活動している人間は、概ね二種類に分けられる。チキンと、無能者だ。まあ文芸評論などというのは小説以上にえないから、出版社のお覚えを損なわないよう、業界の爪弾きにならないようチキン化するのは理解できないこともない。しかし無能者と言うのは! 読解し論じるスキルなぞ努力次第で使える水準まで上げることも出来ように、それを怠っているというのは、これはもう犯罪である。 だから文芸評論は使えないと作家に言われるのだ。チキンや無能者の評論を反省の種にする馬鹿はいない。評論と実作の間の良きフィードバックなぞ、勿論望むべくもない。 では仲俣暁生氏はどちらであろうか。ブログに載せていた2009年のベストを見る限り、チキンであることはほぼ間違いない。立派な御用評論家ぶりだ。ではスキルの方はどうか。 20

    佐藤亜紀 日記: 2009.3.29
  • 鉄腕バーディー DECODE:02 第7話の作画についてダラダラと - WebLab.ota

    前回の記事(鉄腕バーディー DECODE:02 第7話の作画について知っておくべきこと - WebLab.ota)のつづき (今回は前回とは違って,個人的見解を多く含む) 思いつき 鉄腕バーディー DECODE:02 #07 アレ(創聖のアクエリオン #19)とかアレ(ノエイン もうひとりの君へ #22)とかで効果的に、特徴ある絵を使っていた前歴があるわけだし。 と思ったんだけど、いつも自重しないのが売りの提供画面が面白くない普通のモノに。 う〜ん。こうなると話は別になってくるんだよなぁ。真相や如何に? あったあった. つか,こーゆーのに耐性がない人って,風人物語とかケモノヅメ,魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜とかどーやってみるんだろうか?あれは作品全体がそうだからいいのかな? 演出か? まぁ演出だろう. でもそんなに緻密な計算があったとは思ってない. 自由に遊べるところは遊んでいいよ,み

    鉄腕バーディー DECODE:02 第7話の作画についてダラダラと - WebLab.ota
  • 鉄腕バーディー DECODE:02 第7話の作画について知っておくべきこと - WebLab.ota

    今週荒れましたね〜 一部では「作画崩壊作画崩壊!」って騒いでるやつが居ますけど,沓名健一,仁保知行,松憲生,山下清悟,りょーちもといった人気のあるアニメーターが参加してますよ. もちろん,名前の知られたアニメーターが作ってるから,すなわち素晴らしい作画である…とはなりませんが,「作画崩壊!」と言いたいなら,とりあえず,彼らの名前が解って,どれくらいのレベルのアニメーターなのかが大体解ってる状態であるほうがいいでしょう. こういうことを言うと,「そんなこと知らなくたって,だめなものは駄目だし,作画崩壊作画崩壊だろう(「俺が作画崩壊だと思ったんだから作画崩壊なんだ」というロジック)」なんて言う人が沸きますが,そーゆーこと言う人はときどき凄いバカなことを言います. 今回のバーディーの作画が,失敗か成功か?ってのは議論しなければならないところですから,おいて置きますが,ときどき当に凄い仕事

    鉄腕バーディー DECODE:02 第7話の作画について知っておくべきこと - WebLab.ota
    optical_frog
    optical_frog 2009/02/23
    同意.
  • 批評の方法としてのファンフィクション(続) - shinichiroinaba's blog

    断片的メモ。 *近代文学のオリジナリティ、sincerityへのこだわり以前の文芸を見れば当然ながら、伝統的に共有された主題の使い回しというものは散々普通に行われてきたことであるが、しかし近代においても演劇というジャンルははっきりと「同じ主題の変奏」という作業に自覚的にかかわり続けてきたはずである。また近年のオタク系サブカルチャーのいわば「通俗的メタフィクション」もある意味で演劇的だ。そこではキャラクター達は物語を文字通り「演じている」。だから悲惨な死を遂げた人気キャラも、あとがきまんがなどでにこにこと登場して漫才を続けるのだ。 *要するに模倣作やファンフィクションはオリジナルに対する意識裡無意識裡の批評作業なのであり、そこから逆算してオリジナルの含意やポテンシャルを明らかにする手がかりにもなりうるということなのだが、ファンフィクション、あるいはパスティーシュという現象は結構歴史的に由緒正

    批評の方法としてのファンフィクション(続) - shinichiroinaba's blog
  • 評判を共有するのが評論か。 (better)

    「評論」について思いだせる範囲で書くと、1981年1月に出た音楽ミニコミ『ミュニオン』掲載の「触発/ロック評論の腐敗」というインタビューで、高沢正樹氏がこう話していた。 ──評論の腐敗みたいなことに関して言えば、“こう感じた”ことに対する論理的解明をさほど望んではいないでむしろ“こう感じた”というフィーリングを信頼するファンとその上にノッかっちゃってる評論家の間の相関々係についてはどうお考えですか? 全くもって許しがたいですね。つまり音楽評論家というよりも音楽評判家なんであってさ。評判をお互いにどう共有していくか、ということでしかないんだよね。全然「評論」家じゃないんだから、評論をおとしめるから、まず評論家っていう肩書きをおろして欲しいっていうのはあるよね。評論は評論としてすごく重要なものだから。 「評判家」という表現が興味深い。この言葉から、共感を第一に置き、価値観を共有していない人間と

  • 『おまえが若者を語るな!』がいろいろとすごい。 - Something Orange

    おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154) 作者: 後藤和智出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング発売日: 2008/09/10メディア: 新書購入: 9人 クリック: 334回この商品を含むブログ (74件) を見る とんでもないである。いや、これはすごい。読んでいて思わず笑い出してしまった。 後藤はこののなかで、現代を代表する若者論の論客を片っ端からつかまえ、まとめてなで斬りにしている。 その面子たるや、宮台真司、香山リカ、荷宮和子、三浦展、東浩紀、鈴木謙介、寺脇研、宇野常寛、と大物ばかり(宇野さんはちがうかもしれないけれど)。 ある時代に一世を風靡した論客が、次の時代には批判を浴びる。よくあることではある。しかし、ここまで大勢の書き手がいちどに否定される光景はなかなか見れるものではない。 論客たちの業績をひと言ふた言で否定しさるその舌鋒はめっぽう鋭く、そ

    optical_frog
    optical_frog 2008/09/14
    ぼくも同書を読んでほぼ完全に同意できる批判だと思いました>一言で言うと「いいかげんなことを言うな」
  • 「批評」という土壌は枯れ果てつつある - Cahier de Siliqua_alta

    essay, others | 08:01 | 速報性の風読みの技術としての「批評」は早晩より正確な世界認識を有した思考体系へと引きつがれなければならない。今、いわゆる思想界でおきているのは、そうした「批評」の引つぎ先が失われてしまったことだ。かつての思想界では「哲学」がその機能を果たしえたかにみえていた。けれども、現実世界の因果関係をモデル化してより正確に把握しようという志向性をもたなかった「哲学」の世界像はいまでは相当に陳腐なものとなってしまった。宇野の『ゼロ年代の想像力』もまた、この問題状況を回避できていないようにみえる。批評による診断はどこかで理論へと引き継がれなければならない批評は風読みの技術であって、その売りは速報性にある(ここでは純粋に美学的な批評をひとまず除外してかんがえている)。批評は世にあらわれでた作品や事件に「徴候」をみてとり、それら「徴候」を分析することによって、「

  • http://d.hatena.ne.jp/Siliqua_alta/20080909/1220898356

    optical_frog
    optical_frog 2008/09/12
    適確な判断だと思います.
  • ポピュラー音楽と資本主義 - 小池靖:インターネット、スピリチュアリティ、そして社会学

    東京の大学院生とかが(しかも、結構意識の高そうな人であればあるほど)ロックに対して語る語り口について、ながらく私は違和感がありました。 曰く「体制に取り込まれたロックは…」とか。 あと、政治的なメッセージをもった曲のみを過大評価する傾向(ディスコは驚くほど語られない)などにもです。 (ついでに言うと「日には来の○×は無い」式の意見もあまり好きではありません。感想文の域を出ない場合が多いし、じゃあ何が発生してたら「来の○×はあった」ことになるのかが、永遠にハッキリしないからです) そんなことを思いつつ手に取ったのがこのです。 ポピュラー音楽と資主義 作者: 毛利嘉孝出版社/メーカー: せりか書房発売日: 2007/07メディア: 単行購入: 5人 クリック: 47回この商品を含むブログ (33件) を見る 「ポピュラー音楽の社会学」のわかりやすい総論テキストとなるべく書かれたもの

    ポピュラー音楽と資本主義 - 小池靖:インターネット、スピリチュアリティ、そして社会学
  • 秋葉原事件に関する論説メモ - 韓リフの過疎日記

    ある月刊誌に書くための原稿の基礎資料として、主に月刊誌や書籍でみかけたものをまとめてみました。 書籍ベースでは、『アキバ通り魔事件をどう読むのか?』(洋泉社ムック編集部編)がいまのところまとまったものとしてはただひとつでしょう。いくつかの注目すべき論説もでてきてますが、それは以下で言及していきます。 この書籍の中で特に参照になるのが、冒頭の資料1「加藤智大25年の半生」という小林拓矢氏の書いたものです。これは『週刊現代』の6月28日、7月12日に出た加藤容疑者の弟さんからの聞き取りをもとにした記事などをベースに、加藤容疑者の出生、その育った家庭などを含む環境条件、教育仕事などを、客観的なスタイルで書いたもので、これからの基礎資料のひとつとして使えるものです(もちろんできるだけこの論説のソースとなったものにアクセスするのがいいとは思いますが)。 月刊誌ベースの論説や座談会もここ1,2ヶ月の

    秋葉原事件に関する論説メモ - 韓リフの過疎日記
  • 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』と山形・稲葉の新教養主義 - 韓流好きなtanakaの過疎日記

    何度もアマゾンのおすすめに出てきたのでたまたま書店で手に取る。毎回思うが、「時代」を語る上で必修である経済問題に対する想像力というか理解というか知識というかが、この種の論者には決定的に不足していることだ。 それは単純に不勉強だからだろう。どんなに取り繕ってもこの不勉強は今後この若い論者の可能性の足枷になる。人が「時代」と格闘しようとすればするだけこの取り繕いが彼の論説の限界を設定していく。それは高原基彰氏にも感じたことだ。それは残念なことだ。いや、むしろ僕はその不勉強ぶりを少し怒ってもいる。 例えば、その想像力、理解、知識の不足をなんとか補っても、話はよくあるパターン(小泉政権がもたらした構造なんとかのなんとか変化というベタなストーリー)に落ち込むのがせきのやまだろう。 以下に引用するように、「想像力、理解、知識の不足」は、例えば書の基的な認識を奇妙なものにするのに十分である。 「こ

    宇野常寛『ゼロ年代の想像力』と山形・稲葉の新教養主義 - 韓流好きなtanakaの過疎日記
    optical_frog
    optical_frog 2008/08/27
    「批評」のひとたちが経済的観点をスルーして構造なんとかに迷走していく件(+愚息もションボリの問題)
  • 森川嘉一郎論説と文化的競争の理論 - 韓リフの過疎日記

    最近、ちょっとマンガ評論を格的に書くために一日一冊マンガを目標にしている。目標にしなくてもいつも自然に読んでましたか、そうですか。笑。 僕の好きじゃないマンガ評論のタイプは、男/女、若い/年寄り、日/海外、おたく/非(反)おたく、インテリ/非インテリ をことさら区別して、そのことさらの区別に立脚して感性的に語るようなもの。 そういうのもまあ好きじゃないといいながら読んでしまいますが 笑。例えば、どう贔屓目でみてもアメリカやフランスのマンガ・アメコミ・BD評論の水準はすごい高い。それが日ではほとんど紹介もされてなければ、むしろなんか微妙にへんてこな感じで「知的な関税障壁」(笑 とでもいえるものの中で語られているような気がする。 例えば、最近それに類したものとしては、『ファウスト』に掲載されてた森川嘉一郎氏の「おたく文化とアカデミズム」。学術的な評価(権威者による少数の評価)によるおたく

    森川嘉一郎論説と文化的競争の理論 - 韓リフの過疎日記
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