東京にある日本の中枢で、広島壊滅の報をいちばん早く知ったのは海軍省である。8時30分、呉鎮守府よりの第一報がとどいたのである。海軍省は正午ごろには調査団の派遣を決定している。陸軍中央がこの報を知ったのはずっと遅かった。広島の通信網が完全に破壊されたため、第二総軍司令部(在広島)からの報告は、呉鎮守府経由で送られてきたのである。 陸軍省から内閣書記官長迫水久常(さこみずひさつね)をとおして、内閣に広島の第一報が知らされたのは午後も遅くなってからである。天皇もまた、同じころ蓮沼蕃(はすぬましげる)侍従武官長から広島市全滅の報告をうけた。たった一発で広島市が死の町と化したという。天皇は顔を曇らせたが、それ以上たずねようとはしなかった。 翌7日朝、アメリカからのラジオ放送はトルーマン大統領の声明として「われわれは20億ドルを投じて歴史的な賭けをおこない、そして勝ったのである……6日、広島に投下した
![《広島原爆投下》あの日内閣では何が語られていたのか「保証なく皇室をまかすことは絶対に反対である」「戦争を終結させるほかはない…」 | 文春オンライン](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/5fbf8d787362ac92ce52ebca363148246fee17c2/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fbunshun.jp%2Fmwimgs%2F8%2Fd%2F1200wm%2Fimg_8daaa791c8c03834a219867ed86cd72a5956247.jpg)