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海軍兵学校 江田島の検索結果1 - 40 件 / 83件

  • ジャニー喜多川 - Archive of STARTO

    ジャニー喜多川(ジャニー きたがわ、日本名での本名:喜多川 擴 〔きたがわ ひろむ〕、米国名での本名:John Hiromu Kitagawa 〔ジョン・ヒロム・キタガワ〕、作詞時の別名義:JOHNNY.K、1931年〔昭和6年〕10月23日 - 2019年〔令和元年〕7月9日)は、日本の元・実業家、芸能プロモーター。 ジャニーズ事務所、および関連会社のジャニーズ出版、ヤングコミュニケーション、ユニゾン、つづきスタジオの旧代表取締役社長。 ジャニーズアイランド旧代表取締役会長。 ジェイ・ドリームの旧代表取締役社長 (名義だけの幽霊社長)。 元・CIA工作員、米国軍人、外交官。 同性愛者 (真性の小児性愛者、少年性愛者)、性嗜好異常者 (パラフィリア)、魂の殺人者。 ロサンゼルス生まれの日系二世 (両親共に日本人)。 身長:153cm。 血液型:AB型。 87歳没。 姉はメリー喜多川。 なお

    • また8月がやってきた - drfridge’s blog 老生常談

      今日は7月31日。今年もまた8月がやってきた。以前にも8月は特別の月だということを書いたことがあるが、毎年同じことの繰り返しにしても、私にとっては、8月はやはり特別な月である。 もともと子供の時から、8月は夏休みで学校を離れ、海水浴やお祭り、花火、旅行など多彩な行事が続く上にお盆があり、一年の中でも特別な月であったが、それらを超えて強烈な印象を作ってしまったのは「あの戦争」である。 もう78年も昔のことになってしまったが、今もつい昨年のことのようにさえ思われる。私の九十五年の生涯を振り返ってみても、あの敗戦の衝撃は今も鮮明で、その前後で私の人生の歴史はプッツリと断絶しているようなものである。 1945年、昭和20年の8月初めは、江田島の海軍兵学校生徒だった。7月25日の呉の大空襲で帝国海軍の全滅を見たのに続いて、8月6日の広島の原爆を体験し、9日には長崎の原爆投下を知り、いよいよ”最後の決

        また8月がやってきた - drfridge’s blog 老生常談
      • 「日本は負ける」…日中戦争が始まったとき、既に日本の敗北を“予見”していた若き海軍兵学校生徒がいた(神立 尚紀) @gendai_biz

        今年もまもなく「終戦の日」がやってくる。終戦から76年もの歳月が経ち、体験者の話としてこんにち伝わるのはどうしても大戦末期の話題が主になる。だが、原因のないところに結果がないように、大戦末期のことだけを見て「戦争」を語るのは無理がある。戦前、戦中の史料や証言の掘り起こしは、今後ますます大切になってくるだろう。 ――終戦からさかのぼること8年、昭和12(1937)年の支那事変(日中戦争)勃発直後、すでに戦争の先行きについてはっきりと悲観的な所感を日記に記した一人の海軍兵学校生徒がいた。彼はその後、戦闘機パイロットとなり、無謀な戦争への疑問を抱きながらも最前線で戦い、27歳の若さでガダルカナル島上空で戦死した。本人が遺した日記と、遺族や部下だった人の証言から、そんな一人の若者の戦いを振り返る。 宮野善治郎の日記 筆者の手元に、昭和9(1934)年から13(1938)年にかけての二冊の古い日記帳

          「日本は負ける」…日中戦争が始まったとき、既に日本の敗北を“予見”していた若き海軍兵学校生徒がいた(神立 尚紀) @gendai_biz
        • サッカー王国広島の系譜に新事実 | サンフレッチェ広島 オフィシャルサイト

          社長の仙田でございます。 中国新聞朝刊に、「野球サッカー伝来初期 江田島でプレー」という記事が掲載されました。サッカー王国広島を裏付ける貴重な史料の発見です。この記事に私も関わりました。この発見の意義を、かいつまんでお伝えします。 東京九段にある昭和館には、敗戦直後の米豪の撮影したフィルムが膨大に保管してあります。私は、そこにサッカーの映像を探しに行きました。 「昭和20年~24年の呉、川奈、熱海」というタイトル編に、サッカーの映像がありました。そこで、これを取り寄せ、サンフレッチェ広島のホームページ(広島サッカーの歴史ページ)に掲載しました。 場所を特定するために、広島・呉の近代史の権威 千田(ちだ)武志 広島国際大学客員教授に電話で相談すると、もっと大きな発見があって、明治23年、江田島の海軍兵学校でサッカーをしたという記録を見つけたと言われるのです。 そこで、中国新聞社の方と江田島市

            サッカー王国広島の系譜に新事実 | サンフレッチェ広島 オフィシャルサイト
          • 比治山公園(1)芸術と原爆と鎮魂の丘(広島県広島市南区比治山公園) - 何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

            比治山陸軍墓地内のフランス人墓地から広島市街地と瀬戸内海を望む。中央に広島湾に浮かぶ似島(にのしま)の安芸小富士(あきのこふじ=標高278m・富士山に似ています)が見えます。その左側後方に旧海軍の海軍兵学校(現・海上自衛隊幹部候補生学校)で有名な江田島・能美島も見えます。比治山公園は広島市現代美術館や数々の野外彫刻など華やかな芸術の丘として知られていますが、放射線影響研究所、陸軍墓地などもあり、鎮魂の重さを感じさせられる空間でもあります。 広島市現代美術館(比治山公園北部)。大規模な改修工事の為休館中です。(2023年3月リニューアルオープン予定)。桜の名所でもある広い比治山公園(公園内は車で移動します)は広島市内の小高い丘(標高71m)にあり、原爆ドームのある平和記念公園から南東2kmに位置します。広島市現代美術館、広島市まんが図書館、数々の野外彫刻、放射線影響研究所、陸軍墓地などがあり

              比治山公園(1)芸術と原爆と鎮魂の丘(広島県広島市南区比治山公園) - 何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!
            • 【太平洋戦争秘史】意外に多かった皇族・華族の戦没者(神立 尚紀) @gendai_biz

              皇族、そして、明治維新以降の身分制度の上位者であった華族は、戦前まで、様々な特権を与えられていた。 権力者への忖度が常識となった現代日本の感覚からすれば、彼らには、戦時中、戦場に出ることを回避する特権が与えられていたと思うかもしれない。だが、実際には、彼らは軍人となり、先頭に立って戦うことを求められていた。 海軍兵学校や陸軍士官学校で共に学び、最前線で共に戦った者たちの証言から見えてきたのは、彼らの、権力者の傲慢さとは無縁の、清廉で勇猛な戦いぶりだった。 皇族男子はすべからく軍人たるべし 「昭和9(1934)年、海軍兵学校に入校した弟のために、一斗缶にいっぱいの煎餅を詰めて送ったことがありました。田舎の、どこにでもある煎餅です。そしたら弟の同期生に徳川家の若殿様がいて、そんな庶民的なお菓子は召し上がったことがないのか、うまい、うまいと全部食べてしまわれたって」 と、宮崎その(1909-20

                【太平洋戦争秘史】意外に多かった皇族・華族の戦没者(神立 尚紀) @gendai_biz
              • 海上自衛隊の最新鋭掃海艦「えたじま」が進水。日本の技術の結晶(高橋浩祐) - エキスパート - Yahoo!ニュース

                ジャパン・マリンユナイテッドは12月12日、横浜事業所鶴見工場(横浜市鶴見区)で海上自衛隊向け最新鋭掃海艦(MSO)の進水式を行った。同艦は「えたじま」と命名された。2021年3月に完成し、海自に引き渡される予定だ。 えたじまは2017(平成29)年度計画掃海艦で、艦名は広島県の江田島に由来する。同島は1888(明治21)年に海軍兵学校が東京築地から移転して以来、海軍ゆかりの島として知られる。海軍兵学校の代名詞ともなっている。 えたじまは、掃海艦「あわじ型」の3番艦だ。あわじ型は、もともと海自初の掃海艦で既に退役した世界最大級の木造艦「やえやま型」の性能向上型となっている。えたじまの総工費は約177億円。 12月12日に進水したあわじ型掃海艦3番艦「えたじま」(高橋浩祐撮影)●海自最大のFRP製掃海艦えたじまは、あわじ型の1番艦「あわじ」と2番艦「ひらど」とともに海自で最大の繊維強化プラス

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                • 『瀬戸内海の島の大きさトップ10』瀬戸内海にはいくつ島がある? - 旅人サイファのお出かけブログ

                  こんにちは!旅人サイファです! ここのところシリーズでお届けしている【日本の地理自然ランキング】! 前回は「沖縄県の島の大きさトップ10」をまとめました。海洋王国らしい個性的な島がラインナップされていましたよね。 今回は、地方別島の大きさランキングの第2弾!こちらも数多くの島が集まっている『瀬戸内海の島の大きさトップ10』をまとめてみました! 『瀬戸内海』とは、大阪湾から下関水道付近まで、本州と四国と九州に挟まれた水域です。 県名で言うと、大阪府、和歌山県、兵庫県、岡山県、広島県、山口県、徳島県、香川県、愛媛県、福岡県、大分県にまたがるエリアですね! 実はこれ、「瀬戸内海環境保全特別措置法」という法律できっちりとその範囲が定められています。一部、日本海にもはみ出しているのが興味深いですね。 そんな瀬戸内海は、我が国で最も島の多い水域です。東西450km、海域面積23203k㎡とも言われる海

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                  • 消えた「海上自衛隊の鉄道」江田島の廃線跡を歩いてみた 呉弾薬整備補給所の専用軌道 | 鉄道ニュース【鉄道プレスネット】

                    広島湾に浮かぶ島といえば厳島(宮島)が有名だが、その東には江田島(広島県江田島市)という比較的大きな島がある。隣接する能美島と一体化しており、Y字状の形がユニークだ。 ここは旧海軍兵学校の施設を転用した海上自衛隊の幹部候... The post 消えた「海上自衛隊の鉄道」江田島の廃線跡を歩いてみた 呉弾薬整備補給所の専用軌道 first appeared on 鉄道ニュース【鉄道プレスネット】.

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                    • 水雷艇長として日本海海戦に従軍した水野広徳の『此一戦』~~GHQが焚書処分した明治の著作6

                      水野広徳は明治八年に愛媛県の三津浜(現松山市)に生まれ、幼少期に両親をなくして伯父に育てられたのだが、伯父の父の妻は秋山好古・真之兄弟の親戚だったという。松山中学を経て江田島の海軍兵学校を卒業し海軍の軍人となり、日露戦争では第四十一号水雷艇長として、旅順港閉塞作戦や黄海海戦、日本海海戦に従軍した。 日露戦争終戦後は軍司令部戦史編纂部で『明治三十七八年海戦史』の編纂に従事し、明治四十四年に日本海海戦を描いた『此一戦』を著してベストセラーとなる。 第一次大戦をでは欧米諸国を私費で視察し、次第に反戦・平和論を説くようになり、大正十年に東京日日新聞に連載した「軍人心理」で書いた内容が海軍で問題となって謹慎処分を受け、その後退役して評論家としての道を進んだという。 今回は水野の処女作である『此一戦』の一部を紹介したい。この作品はその後何度か復刊されたり、文学全集に収録されていて、GHQが焚書処分した

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                      • 桜旅11日目:広島県広島から福山まで - シニアライダーの日常・R1200Rと共に

                        桜旅11日目は広島市内のホテルで目覚めました。久しぶりのホテル泊ですっきりですが、この日は半日リモートで仕事です。 その後、呉・江田島、そして尾道あたりに行きたかったですから、呉市の広というところまで移動して、そこのイオンで買い物をし、そのまま駐車場を使わせていただくことにしました。 予定より早く13時頃に仕事は片付きましたので、そこから呉観光ですが、大和ミュージアム等は以前バイクツーリングの時に行っていますので、この日は呉の市街地ではなく、音戸の瀬戸に行って見ることにしました。 昼ご飯がまだでしたので、音戸大橋の近くにあった会館で海鮮丼を頼んだのですがこれが大失敗。すし飯が旨く炊きあがっていなくて芯が残った硬いコメでした。すし飯は硬めとは聞きますが、芯のあるコメはご遠慮申し上げたいです。決してグルメではない私があえて書くくらいですから、、。 見た瞬間はとても美味しそうだったのですが、、

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                        • 練習艦だった比叡と金剛がなぜトルコに?エルトゥールル号遭難事件の裏側に迫る | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

                          明治23(1890)年9月16日夜半、トルコ軍艦エルトゥールル号(以後「エ号」と称する)が和歌山県沖で座礁・沈没した事件は、死者が500名を超える(生存者69名)という大惨事となりました。このとき献身的に救助にあたった当時の大島村(現串本町)の住民の行動を始めとする日本側の対応は、その後のイラン・イラク戦争における救援機の派出というトルコ政府の恩返しともいえる美談とともに日本・トルコの友好の証となっています。 参考:日本とトルコの絆をつないだ物語|串本町 生存者69名は、軍艦「比叡」と「金剛」によって本国に送還されますが、それは少尉候補生の遠洋練習航海を兼ねてのトルコへの航海でした。その派遣の決定からトルコへの航海について、あまり知られていないことを紹介したいと思います。 エルトゥールル号 『土耳其國軍艦エルトグルル號』駐日土耳其國大使館(海外印刷所 昭和20年刊行)国会図書館デジタルコレ

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                          • 【坂の上の雲】第3話感想。国家鳴動 - 妙香の感想ダイアリー

                            妙香(mica)です。 いつも当ブログにご訪問いただき、本当にありがとうございます。 【坂の上の雲】第3話の感想を書きました。 今回の見どころは真之が父の死を兄からの手紙で知るシーンです。 親の死に目に会えないというのは本当に辛いですよね。 私も父が亡くなった9年前はそうでした。 www2.nhk.or.jp 原作:司馬遼太郎「坂の上の雲」ほか 制作:NHK 放送局:NHK 脚本:野沢尚、柴田岳志、佐藤幹夫、加藤拓 脚本諮問委員:関川夏央ほか7名 脚本監修:池端俊策、岡崎栄、松下和惠 演出:柴田岳志 音楽:久石譲 主題歌:「Stand Alone」サラ・ブライトマン エグゼクティブプロデューサー:菅康弘、西村与志木 放送日:2009年12月13日 視聴率:19.5% video.unext.jp 【坂の上の雲】はU-NEXTで配信中です。 期間は2021年7月31日23時59分までです。

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                            • 裸の交渉 ―青木建設創業夜話― - 書痴の廻廊

                              外交にせよ、商談にせよ。まずふっかけてかかるのが交渉術の基本とされる。 過大な条件を突き付けて、そこから徐々に妥協点を探ってゆくのが即ち腕の見せ所であるのだ、と。 近年のサブカル界隈にもまま見られる描写であった。 有名どころでは『スターダストクルセイダーズ』が挙げられよう。パキスタンにて、ジョセフ・ジョースターがケバブを値切ったあの手際。店主の内心まで含め、ほとんどお手本のようだった。 (Wikipediaより、イスタンブールのドネルケバブ) しかしながら、すべてではない。 すべての商人、外交官が、常に如上のメソッドに則るわけでは、むろんない。 ときには敢えて真逆を行く者もいる。素人ではなく、いっぱしの玄人の中にも、だ。 清水雅が、まさに好個の例となる。「阪急の大番頭」の渾名で知られるこの人物を、江田島海軍兵学校の主計官が訪ねてきたのは昭和十年のことだった。 「酒保に並べる商品につき、相談

                                裸の交渉 ―青木建設創業夜話― - 書痴の廻廊
                              • 戦前の反戦運動

                                「聳ゆるマスト」阪口喜一郎の顕彰記念碑建立運動 1、「不屈」広島県中部版 09年4月 NO-1 「聳ゆるマスト」記念碑建設のための呼びかけ人会議が、四月五日に、呉市で開かれました。 上田博則・同盟呉支部長(県副会長)の報告をはじめ、大阪・和泉市、津和野町、御調町からも参加があり、全体では十五名で、今年末の「阪口喜一郎碑前祭」にむけての取組みの方向が確認されました。 会議後、呉市の喜一郎「ゆかりの地」を、同盟・呉支部顧問の小栗勉さん案内で訪ねました。 呉市ビューポートで開かれた「よびかけ人会議」 正面左から、柳河瀬、上田、小栗、山田、岩崎、奥田さん。 全国的な「よびかけ人」に、同盟大阪府本部・柳河瀬精会長(中央副会長)、広島県本部・山田慶昭会長、古久保暢男・元大教組委員長などが参加されることが確認されました。 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 機関紙「不屈」広島県版の紹介 (不屈 広島県版 

                                • 【前編】『火垂るの墓』を冷酷に時代考証してみる

                                  清太の父は本当に『摩耶』に乗っていたのか?ネットでささやかれているウワサがあります。それは、清太の父が『摩耶』の艦長だったというもの。この記事のため、改めて『火垂るの墓』をノーカットで見てみました。が、劇中では艦長の「か」も出てこず。 原作では清太が「巡洋艦『摩耶』にのりくみ」と述べていますが、それは観艦式の話で昭和20年の話にあらず。観艦式の記憶からの清太の思い込みの可能性と考える方が妥当です。 何故ならば、史実では昭和17年頃から機密保持が厳しくなり、どの艦に乗っているかは家族にも言ってはいけないことになったから。「巡洋艦に乗ってる」「佐世保にいる」くらいはOKでしょうが、「戦艦『長門』」「佐世保の◎◎隊」など具体的な名称を出すのはNGどころか、機密漏洩罪で懲戒処分対象です。里帰りした二等水兵が『大和』に乗れたうれしさで家族にそれを言ってしまい、翌日憲兵が飛んできたという話もあります。

                                  • 特攻の立役者、黙考の戦後 「必死必殺ノ戦」から酌むべき教訓:朝日新聞デジタル

                                    記者コラム「多事奏論」 駒野剛 雨が降りしきっていた。広島県呉市の吉浦地区は丘陵が海岸近くに迫り、頂上付近に墓が林立していた。坂を上るが滑りやすく、一部、道すら失われているため、案内されなければたどり着けなかったろう。 「黒島亀人之(くろしまかめとの)墓」。世間から隠れるように墓石はあった。旧海軍兵学校があった江田島の方を向いていた。墓の主の母校だ。 卒業後、現場暮らしの長い黒島が国運を左右する任務についた。1939(昭和14)年10月、海軍の主力、連合艦隊の先任参謀になったのだ。その2カ月前、艦隊司令長官に山本五十六が就任していた。その下で黒島は、80年前の真珠湾奇襲、さらにミッドウェー海戦の作戦案を練り上げる。 空母攻撃機で真珠湾の米艦隊を強襲する作戦は、長距離航海の危険などから反対が多かったが、山本が実現にこだわった。 黒島は常識外れの発想ができるからと具体化を任された。二人は米側に

                                      特攻の立役者、黙考の戦後 「必死必殺ノ戦」から酌むべき教訓:朝日新聞デジタル
                                    • 野球・サッカーの伝来初期、江田島でプレー 海軍兵学校の史料発見 | 中国新聞デジタル

                                      江田島市学びの館(同市江田島町)が所蔵する史料「久枝(ひさえだ)家文書」の中に、日本に野球やサッカーが伝わって間もない明治中期、江田島にあった海軍兵学校で両競技が公開でプレーされたことを記した小冊子が見つかった。ルールが詳しく解説され、まだ一般になじみのないさまが浮かぶ。西洋スポーツの受容史を補強し、広島とのゆかりを証す資料として専門家たちも注目している。 冊子は、1890(明治23)年12月19日付の「四号生徒及第証書授与式次第書 海軍兵学校」。江田島で長く庄屋を務めた久枝家から市に寄贈された文書の中にあった。元呉市史編纂(へんさん)室長の千田武志・広島国際大客員教授が、本年度内に刊行を予定する「呉市史資料編 海軍I」に収録するため、文書を整理する中で見つけた。 ほぼA6判大の袋とじ和装本で、印字面は15ページ。元江田島市文化財保護委員長の宇根川進さんは「当時の兵学校の最下級生が『四号生

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                                      • キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(1) - 大和徒然草子

                                        皆さんこんにちは。 今回ご紹介する人物は、日米開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃で、真珠湾攻撃隊の総指揮を執り、「トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」のトラ連送の暗号打電を行った、淵田美津雄です。 太平洋戦争の戦史について、詳しい人以外、日本ではほとんど知られていない人物かと思います。 淵田は海軍将校として真珠湾攻撃からミッドウェイ海戦など、太平洋戦争の主要な戦いをくぐり抜け、原爆投下から戦艦ミズーリでの降伏文書調印にまで立ち会い、戦後は一転してキリスト教に改宗、戦争による憎しみの連鎖を裁ち切ろうと伝道に生涯をささげた人物です。 その非常に数奇な人生を、今回から数回に分けてご紹介していきたいと思います。 航空機に魅せられて 盟友との出会い 運命の日に向けて 航空機に魅せられて 1902(明治35)年、奈良県北葛城郡磐城村(現葛城市)に淵田は生まれました。 父の彌蔵は、高市郡真菅村(現橿原市)出

                                          キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(1) - 大和徒然草子
                                        • 【戦争に学ぶ】無謀な戦争に疑問を抱き続けた男がいた。それでも、戦う以外の選択肢はなかった…(神立 尚紀) @gendai_biz

                                          ――終戦からさかのぼること8年、昭和12(1937)年の支那事変(日中戦争)勃発直後、すでに戦争の先行きについてはっきりと悲観的な所感を日記に記した一人の海軍兵学校生徒がいた。その男の名を宮野善治郎という。彼はその後、戦闘機パイロットとなり、無謀な戦争への疑問を抱きながらも最前線で戦い、27歳の若さでガダルカナル島上空で戦死した。本人が遺した日記と、遺族や部下だった人の証言から、そんな一人の若者の戦いを振り返る。 <【前編】「日本は負ける」…日中戦争が始まったとき、既に日本の敗北を“予見”していた若き海軍兵学校生徒がいた> 海軍兵学校を卒業後 休暇を終えた宮野が江田島に帰った5日後、長兄・真一が陸軍に召集される。多くの日本人にとって、中国大陸での戦争は、もはや他人事ではなくなっていた。それまでごく日常的な生活を送っていた大勢の市井の青年たちが、召集されて大陸へ出征していった。 宮野は昭和1

                                            【戦争に学ぶ】無謀な戦争に疑問を抱き続けた男がいた。それでも、戦う以外の選択肢はなかった…(神立 尚紀) @gendai_biz
                                          • この目で見た広島の原爆投下 - drfridge’s blog 老生常談

                                            また8月6日の広島への原爆投下の日がやってくる。もう実際に原爆投下の惨状を我が目で見た人は少なくなってしまっているであろうから、生き証人としての私には、生きている限り、それを伝える義務があるように思われる。 これまで何度も触れたことがあるし、昨年もこのブログに原爆投下について書いているので、今回はここで同じ文を再録させて貰うことにする。既にご存知の方は飛ばしていただければ良いが、たまたま、ご存じでない方がおられれば、一人でも多くの人に語り継ぎたいのでお読みいただければ幸いである。 今「ピカ・ドン」と言ってどれだけ通じるだろうか? ピカ・ドンとは原子爆弾投下による悲劇のことである。1945年8月6日午前8時15分、アメリカ空軍のB29爆撃機によって、原子爆弾が広島市の上空から落とされ、語り継がれているように何十万人という市民の命を奪い、多くの人たちを傷つけ、広島の街を灰燼に帰した悲劇のことで

                                              この目で見た広島の原爆投下 - drfridge’s blog 老生常談
                                            • 海軍兵学校の「鉄拳制裁」で鍛え上げられ、家康以来、唯一徳川家で「討死」した「将軍の孫」(神立 尚紀) @moneygendai

                                              皇族、そして、明治維新以降の身分制度の上位者であった華族は、戦前まで、様々な特権を与えられていた。 権力者への忖度が常識となった現代日本の感覚からすれば、彼らには、戦時中、戦場に出ることを回避する特権が与えられていたと思うかもしれない。だが、実際には、彼らは軍人となり、先頭に立って戦うことを求められていた。 海軍兵学校や陸軍士官学校で共に学び、最前線で共に戦った者たちの証言から見えてきたのは、彼らの、権力者の傲慢さとは無縁の、清廉で勇猛な戦いぶりだった。 皇族男子はすべからく軍人たるべし 「昭和9(1934)年、海軍兵学校に入校した弟のために、一斗缶にいっぱいの煎餅を詰めて送ったことがありました。田舎の、どこにでもある煎餅です。そしたら弟の同期生に徳川家の若殿様がいて、そんな庶民的なお菓子は召し上がったことがないのか、うまい、うまいと全部食べてしまわれたって」 と、宮崎その(1909-20

                                                海軍兵学校の「鉄拳制裁」で鍛え上げられ、家康以来、唯一徳川家で「討死」した「将軍の孫」(神立 尚紀) @moneygendai
                                              • 爺さんを偲ぶ日々、そして癒しの旅路、松山道後から呉、広島へ - unibaba721のブログ

                                                4月に最愛の夫が亡くなりましてから 丁度半年が過ぎました。1年半という短い闘病生活でした。 爺さんが亡くなるなどとは考えられなかった、 考えたくもなかった私はまさに現実逃避をしていて 日々病状が悪化していく中にあってもきっと良くなるはずだと 信じて疑わなかったお目出度い人間でした。 そんな私に亡くなる何日か前に爺さんが言った言葉は 「俺が死んだら○○から必要書類が来るから心配しないで、 愛してるよ、でもお前は現実を見ようとしないでいつまでも 夢みたいなことを言っているから駄目だよ。 現実を直視して、死んだ後の事はわかるようにしてあるから」 というのです。 私が「そんなこと言わないで、まだまだ大丈夫!元気になる」 と言いますと 「馬鹿!又夢みたいなことを言って俺は自分で思っている以上に 人生を全うしたよ」そんな覚悟を持った言葉を告げられると 私には返す言葉がありませんでした。 爺さんは覚悟の

                                                  爺さんを偲ぶ日々、そして癒しの旅路、松山道後から呉、広島へ - unibaba721のブログ
                                                • 「押忍とは何か?」(三五館) - 元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

                                                  makoto-jin-rei.hatenablog.jp makoto-jin-rei.hatenablog.jp → 「拓殖大学」関連の記事 さて祝日🎌の今日も、 頑張って昼メシ抜き!! 夕方は最後の、 ダイヤモンド富士に、 チャレンジしますが、 とりま貯金の、 読書ネタをUPします。 押忍とは何か? 作者:大森 敏範発売日: 2016/12/21メディア: 単行本 小中学の義務教育から高校まで、 一貫して全く勉強もせずに、 浪人して更に偏差値を落とし、 そこしか合格出来ずに入学した、 我が母校、拓殖大学デスが、 ワタシは出身大学に、 誇りを持っておりますし、 愛校精神も強い方かと、 自負致しております。 これは読まねば!押忍!! 押忍とは何か? https://t.co/93BDwdGq4E #Amazon— makoto-jin-rei@元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記

                                                    「押忍とは何か?」(三五館) - 元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】
                                                  • 黒羽亮一(くろはりょういち) 先生 | 広島大学高等教育研究開発センター

                                                    【第1回】  生い立ちから高等教育まで 【第2回】  学生と新聞記者の時代 【第3回】  高等教育政策の追及に 【第4回】  高等教育研究者への期待 ————————————————————————————————– 【第1回】 生い立ちから高等教育まで 私は昭和3年(1928)、当時の地名でいうと東京都荏原郡世田谷町太子堂に生まれた。渋谷駅からの田園都市線に三軒茶屋という駅があり、繁華街であることは、東京に住んでいない方でもご存知だろう。しかし当時は、連隊や戦車学校など各種の陸軍施設のある地域の、さらに外縁の武蔵野台地だった。転居のため、小学校はそこから西南3㎞ほどの、目黒区衾町にあった区立八雲小学校に入り、昭和16年に卒業した。国民学校と改称される年である。戦前の小学校の最後の卒業生ということになる。 日中戦争は12年に始まり、興亜奉公日ができ、同級生の職業軍人の父親が戦死するなど、戦

                                                    • 江田島巡り【旧海軍兵学校】 | 中学受験社会のブログ

                                                      呉・中央桟橋 呉市内から江田島に向かいます。 巨大なオブジェ発見しました。戦艦大和の主錨のオブジェです。 どこに行っても錨がありますね。 さて呉駅の向こう、大和ミュージアム方面に向かいます。 大和ミュージアムそばに中央桟橋があります。今日はここからまず江田島に向かっていきます。 フェリーの切符売り場です。 今日の目的は「海上自衛隊第一術科学校」の見学です。これは無料で見学できることもあって、かなりの人気なのです。江田島行きのフェリーが来ましたので、乗船していきます。 これから江田島の小用港を目指していきます。だいたい20分くらいでつけます。 巨大な船が見える。護衛艦ですね。 さあ、江田島の小用港に接岸です。 ここから路線バスで、5分くらいで術科学校前バス停に到着しました。 海上自衛隊第一術科学校 これが「海上自衛隊第一術科学校」の正門です。 ここで記名して受付をします。 見学者バッジをつけ

                                                        江田島巡り【旧海軍兵学校】 | 中学受験社会のブログ
                                                      • 海軍兵学校最後の78期生 敗戦前提の教育意図、後に知る|あなたの静岡新聞

                                                        海軍兵学校最後の78期生 敗戦前提の教育意図、後に知る 国内屈指のテーマパーク、長崎県のハウステンボス。ここには旧日本海軍が太平洋戦争中、幹部を養成する海軍兵学校の針尾分校を開設していた。戦争末期、海軍は敗戦を見越し、戦後の日本を担う人材を教育しようとしたとされる。海兵最後の78期生として昭和20(1945)年に15歳で入校し、敗戦までの4カ月半を過ごした浜松市東区の大庭直彦さん(90)は「将来? あの頃は死ぬことしか考えていなかった」と当時を思い起こす。 海軍兵学校から持ち帰った品のうち、唯一残る白手袋を手にする大庭直彦さん。制服は戦後の物資不足で全て着古した=7月末、浜松市東区 国民学校や旧制中学で「国民は天皇陛下の赤子(せきし)」と教わってきた大庭さん。9歳上の兄は激戦地ガダルカナルで亡くなった。浜松一中(現浜松北高)から海軍兵学校を受験し、戦地で散る未来を描いたのは自然な流れだった

                                                          海軍兵学校最後の78期生 敗戦前提の教育意図、後に知る|あなたの静岡新聞
                                                        • 疲労や不安…ケアラーにも支援を 日本ケアラー連盟・児玉真美さん インタビュー 【連載】大空といつまでも 医療的ケア児と家族の物語<15・完> | 長崎新聞

                                                          疲労や不安…ケアラーにも支援を 日本ケアラー連盟・児玉真美さん インタビュー 【連載】大空といつまでも 医療的ケア児と家族の物語<15・完> JR広島駅で新幹線を降り、在来線に乗り換えると、瀬戸内海が広がってきた。かつて旧海軍兵学校があり、今も海上自衛隊幹部候補生学校がある江田島を右手に見ながら、電車に揺られること約30分。長崎県佐世保市のように旧海軍、海上自衛隊のまちとして知られる呉に着いた。 その女性とは駅前のホテルロビーで待ち合わせていた。凜(りん)とした姿で現れたのは児玉真美さん(63)。重症心身障害のある海(うみ)さん(32)の母親で、一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事を務めている。 「ケアラー」とは、高齢の親や配偶者の介護をしたり、依存症者やひきこもりの家族のケアをしたりしている人のことで、障害のある子どもの親も含まれる。同連盟は、こうした人たちが疲労や不安などで健康を損ねた

                                                            疲労や不安…ケアラーにも支援を 日本ケアラー連盟・児玉真美さん インタビュー 【連載】大空といつまでも 医療的ケア児と家族の物語<15・完> | 長崎新聞
                                                          • 第1554回 札幌人図鑑史上最高齢更新!社交ダンス愛好家 秋山寿美さん(95歳) - シニア情報局

                                                            第1554回 札幌人図鑑史上最高齢更新!社交ダンス愛好家 秋山寿美さん(95歳) youtu.be 3,318 回視聴  2019/02/11 ブルーのドレスにハイヒール。心配する家族には「今年で最後よ」と言いつつも、昨年も発表会でメドレーを踊りきった。ダンスのレッスンは週に3回。コーラスもゴルフも大好き。さすがに車の運転はしなくなったけど、ゴルフに行くとカートの運転ができるから楽しいと笑います。今日のゲストは札幌人図鑑史上最高齢更新!社交ダンス愛好家の秋山寿美さん、95歳です。大正12年生まれ。夫が海軍兵学校の教官だったので、広島の原爆は江田島で見た。終戦後、故郷の札幌へ帰る。ダンスを教わったのは豊平館のご子息。自宅へ招き夕食後に事務室を片付け、家族みんなでダンスを練習したのが良い思い出だと振り返ります。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 札幌でご活躍の方を1年365日毎日配信している札幌人図鑑。

                                                            • 瀬戸内の魅力発信「ふるらぶ せとうち」オープンで記念イベント開催 新井貴浩も応援

                                                              (株)ふるらぶ(広島県広島市)は瀬戸内の魅力をアピールするふるさと納税ポータルサイト「ふるらぶ せとうち」のグランドオープンを記念し、8月28日にオンラインイベントを開催した。地域アンバサダー代表として、アイドルグループSTU48のメンバーが登場。また、元プロ野球選手で野球解説者の新井貴浩さんからの激励コメントや、地域性を活かした自慢の返礼品を紹介した。 「ふるらぶ せとうち」は、香川・兵庫・広島・愛媛・岡山・徳島・山口の7県に属する各自治体が参加し、せとうちの自然の恵みがはぐくんだ「人」「モノ」「場所」を紹介する「ふるさと納税ポータルサイト」。既存のふるさと納税の運営サイトと異なり、その地域にゆかりのある人が"愛する地元の魅力を発信すること"を目的に、地域を支えるアンバサダーとなっている。​今回、STU48のメンバーである岩田陽菜さん、甲斐心愛さん、門脇実優菜さんの3人が初代アンバサダー

                                                                瀬戸内の魅力発信「ふるらぶ せとうち」オープンで記念イベント開催 新井貴浩も応援
                                                              • 中村良三 (海軍軍人) - Wikipedia

                                                                中村 良三(なかむら りょうぞう、1878年(明治11年)7月26日 - 1945年(昭和20年)3月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将、位階勲等は正三位勲一等功五級。米内内閣の内閣参議。 来歴[編集] 青森県弘前市出身、旧弘前藩士で医師の中村春台の二男。5歳のとき親類の中村了三の養子となる。1896年(明治29年)に青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業後、海軍兵学校入学(27期)。 日露戦争が始まった時には「扶桑」の分隊長をつとめたが、「扶桑」は当時すでに艦齢四半世紀を超え、日露戦争では第三艦隊所属となって地道な哨戒活動に従事していた。第3回旅順港閉塞作戦では「新発田丸」指揮官附として参加[1]。1905年(明治38年)1月に行われた異動では最新鋭の巡洋艦「明石」の航海長兼分隊長に補職され、第二艦隊の第四戦隊として日本海海戦に参加した。 日露戦争後の1905年(

                                                                  中村良三 (海軍軍人) - Wikipedia
                                                                • ピカドン - drfridge’s blog 老生常談

                                                                  ピカドンとはあの8月6日の、広島への原爆投下について、被害者たちが現実の経験に基づいて付けた名前である。 私は当時、広島の南にある江田島の海軍兵学校という海軍士官を要請する学校にいた。全寮制というより、入学してから卒業するまで、ずっとそこに住み込んで、勉強したり、訓練を受けたりする仕組みになっていた。 原爆が投下された8月6日の午前8時15分は朝の自習時間で、分隊ごとに教室でそれぞれに勉強しているところであった。雲ひとつない夏の良い天気の日であったが、何の前触れもなく、突然ピカツと閃光が窓ガラス越しに部屋の中まで差し込み、一瞬教室の中が明るくなり、皆を驚かした。何事だろうと思っているうちに、しばらく間をおいて、今度はドカーンという強烈な音がして地響きがし、建物が揺れた感じがした。 戦時中なので、当然爆撃だと思って、皆外へ飛び出した。そして空を見上げると、あの原子雲がもくもくと立ち上がってい

                                                                    ピカドン - drfridge’s blog 老生常談
                                                                  • イタリアンロール:御菓子司 花月堂 ロールケーキは濃厚で満足感あり。  - 風の音だけが週末のConversation

                                                                    旧海軍兵学校で有名な江田島 そこにある花月堂のイタリアンロール1300円 ふわふわのスポンジなのに ずっしりと重いロールケーキはバタークリーム入りで 懐かしい濃い味で食べ応えあり。 満足感っていろんな要素があると思うんですが 有名であり他と明らかに一味違うことと 口にするまでの手間だとかそんな要素が重なって この美味かった経験が満足に繋がるのだろう。 思い出までロールインされたケーキ。

                                                                      イタリアンロール:御菓子司 花月堂 ロールケーキは濃厚で満足感あり。  - 風の音だけが週末のConversation
                                                                    • (8)ノーリツ名誉会長 太田敏郎|震災20年目|阪神・淡路大震災|連載・特集|神戸新聞NEXT

                                                                      一代でノーリツを築いた太田敏郎さん。「政府に頼らず、企業は自力で生き抜く。震災でそれを痛感した」=神戸市中央区江戸町、ノーリツ本社 1938年の阪神大水害、45年の原爆、敗戦。焼け野原の神戸で風呂釜の事業を始め、95年に阪神・淡路大震災を体験した。 87年の人生を振り返って思う。戦争だけは絶対にやっちゃいかん。災害は人間の命が守られるよう最大限努力せよ。これに尽きる。 69年前、広島・江田島の海軍兵学校の講堂で訓話を受けているとき、閃光(せんこう)が走った。対岸の広島が真っ黒な雲に覆われた。広島駅に向かう途中で見たのは、焼けただれた人、傷ついた人…。貨物列車に乗り、故郷の高砂を目指した。 神戸でゼロから事業を起こし、給湯器大手になった。地震がないと思い込んでいたこの街が激震にやられた。2011年には東日本大震災が東北を襲った。 行政は「安全」を強調してきたが、適当なところでごまかしてきたの

                                                                        (8)ノーリツ名誉会長 太田敏郎|震災20年目|阪神・淡路大震災|連載・特集|神戸新聞NEXT
                                                                      • 『ブラジル日系移民に学ぶ「日本の心」(下)』

                                                                        人気ブログランキングに参加しています。 こちらをポチッ とお願い申し上げます。 国際派日本人養成講座よりの転載です。 No.1240 ブラジル日系移民に学ぶ「日本の心」(下): 国際派日本人養成講座 (jog-net.jp) ブラジルで幾多の苦難を乗り越えて、今日の尊敬される地位を築いた日系人は、「日本の心」のパワーを実証してくれた。 ■1.「日本の心を伝えるのは日本語より他には有り得ません」 ブラジルの日系二世・村崎道徳さんのお母様は、「日本にも月があるか」と聞かれるほどの「文化の違いの中にあなた達を投げ込むのが本当に悲しい」と思い、村崎さん兄妹に「全情熱を傾けて日本人に育てるぞと覚悟を決め」ました。そして近くの日本人の子供たち二十人くらいを呼び集め、家の一部屋を開放して学校を始めたのです。ここで村崎さんはこう言われます。 __________ 如何に日本の心を伝えるか、日本の方は実感が

                                                                          『ブラジル日系移民に学ぶ「日本の心」(下)』
                                                                        • 第460話 海軍再建計画と山陰山陽大街道計画 - 転生したらチートなし!!元アラフィフの戦国サバイバル(姜維信繁) - カクヨム

                                                                          元亀二年 五月二十四日 姫路城 純正は五月十二日には塩置城に入り、赤松義祐と三木道有の仕置をした。 すでに毛利・小早川・三村の連合軍は、播磨北部の国人を制圧して城下に集まっており、宇喜多・陸軍連合軍も沿岸の城を制圧して集結していた。 「みな、ご苦労であった。十分に休むが良い」 陸海軍の将兵と、毛利三家と三村、宇喜多の兵にも十分に休息をとらせ、酒を振る舞った。三木通明は千二百石へ減封、赤松義祐は塩置城の二千八百石のみとした。 そしてもちろん、生野銀山を手に入れて餝磨津(しかまづ)(姫路港)を積出港としたのだ。 東西18kmの広大な港湾工事を計画し、餝磨津を堺をしのぐ貿易港とする。隣には造船所を併設し、船場川を拡張して姫路城下への水運を整備するのだ。 さらに夢前(ゆめさき)川の拡張整備を行い、英賀(あが)城から塩置城への水運も並行して行う。 山陰但馬の林甫城近くの丹生湊の拡張整備、護岸工事を行

                                                                            第460話 海軍再建計画と山陰山陽大街道計画 - 転生したらチートなし!!元アラフィフの戦国サバイバル(姜維信繁) - カクヨム
                                                                          • 賀陽治憲 - Wikipedia

                                                                            賀陽 治憲(かや はるのり、1926年〈大正15年〉7月3日 - 2011年〈平成23年〉6月5日[1])は、日本の外交官、旧皇族。賀陽宮恒憲王の第2王男子。海軍兵学校75期。1947年10月14日の皇籍離脱までは、治憲王(はるのりおう)。 略歴[編集] 皇族時代[編集] 1926年〈大正15年〉7月3日午前8時50分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第2男子として誕生[2]。御七夜の7月9日に「治憲」と命名された[3]。 学習院初等科・学習院中等科を経て、1943年(昭和18年)12月1日、江田島海軍兵学校(75期)に入学。井上成美中将のもとで学んだ。入校式においては皇族の生徒として紹介を受け、同期生の敬礼を受けている(広島中央放送局ニュース再録に記録あり)。 治憲王が入校した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、王は岩国分校で教育を受けた。分校においては柔道を選択、練成した。最

                                                                              賀陽治憲 - Wikipedia
                                                                            • 古鷹山登山|江田島に聳える日本海軍の鍛錬の山を登ってみた! - 素晴らしき日本の景色たち

                                                                              広島県で一番低い茶臼山を訪れた後は、海上自衛隊第1術科学校を見学し、見学後は学校の背後に聳える霊峰古鷹山を登りました。 古鷹山は海軍時代から鍛錬の山として知られ、かつてはハイキングや登山を楽しむ事ではなく、己の心と身体を鍛え上げる軍人たちが死ぬ気で駆け上がる山であったそうです。 海軍兵学校が海上自衛隊に引き継がれたと同じく、古鷹山も海軍たちの鍛錬の山から海上自衛隊員たちの鍛錬の山へ受け継がれ、見学の時にガイドさん曰く、自衛隊員たちは古鷹山を20分で登頂するそうで、その話を聞いて興味を持った為に私あおすけ氏も古鷹山に挑戦する事となりました! 近代では鍛錬の山として、さらに時代を遡ると霊峰としての顔を持ち、現在はしま山100選に選ばれる山へ変化し、多くの登山者で賑わいを見せています。 果たしてあおすけ氏は20分で登頂する事ができたのか? 結果は一番下の「最後に」でお伝えするので最後まで見てね~

                                                                                古鷹山登山|江田島に聳える日本海軍の鍛錬の山を登ってみた! - 素晴らしき日本の景色たち
                                                                              • 舞台「魁!!男塾」 | カンフェティ [演劇やクラシックのチケット情報満載]

                                                                                カンフェティ会員なら1%ポイント還元 詳細はこちら この公演は終了しました。 他の公演を検索するには、ページ上部の 検索窓にキーワードを入力して下さい。 購入方法について / 手数料について ■新型コロナウイルス感染症拡大防止の取り組みとお客様へのお願い 新型コロナウイルス感染症情勢と政府の感染症対策本部の方針を鑑み、下記感染症予防の取り組みを実施した上で公演を実施する予定です。ご観劇のお客様におかれましても、感染予防及び感染拡大防止のためご理解とご協力をお願い致します。 【お客様へご協力のお願い】 ・劇場ご入場時に下記の取り組みを実施致します。ご来場のお客様におかれましては、余裕をもったご来場にご協力お願い致します。 ・ご来場前にご自宅で検温のご協力をお願い致します。 ・入場時に非接触型体温計にて体温を測らせて頂きます。37.5 度以上の発熱が明らかになった場合はご入場をお断りさせていた

                                                                                  舞台「魁!!男塾」 | カンフェティ [演劇やクラシックのチケット情報満載]
                                                                                • 獅子文六『海軍』と、出刃包丁 - 佐藤いぬこのブログ

                                                                                  青春感MAX(?)の物語、獅子文六『海軍』 2022年7月、こんなドラマがはじまるそうです。公式ツイッターの謳い文句には 「青春感MAX 」とありました… さて「青春感MAX」といえば、ユーモア小説家の獅子文六が、本名の岩田豊雄で書いた『海軍』は、ある意味「青春感MAX」の(国策に沿った)小説といえるでしょう。 日米開戦の翌年、朝日新聞に連載された小説『海軍』(昭和17)は、ピュアすぎる若者2人が海軍士官を目指すストーリー。熱い友情で結ばれた2人ですが、1人は「軍神」に、もう1人は「海軍画家」になるのです。 天使じみた「主人公」と、情緒不安定な「副主人公」 小説 『海軍』は、「主人公」と「副主人公」がいて、「SIDE:A」「SIDE:B」みたいになっているんですよ。(※「副主人公」は、“戦争中、海軍の詳しい話は書けない”という事情から、説明役として誕生したキャラ*1) 「主人公」の真人は、

                                                                                    獅子文六『海軍』と、出刃包丁 - 佐藤いぬこのブログ