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磯崎新の検索結果1 - 10 件 / 10件

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磯崎新に関するエントリは10件あります。 訃報建築architecture などが関連タグです。 人気エントリには 『国際的建築家、磯崎新さんが死去 ポストモダンのリーダー | 共同通信』などがあります。
  • 国際的建築家、磯崎新さんが死去 ポストモダンのリーダー | 共同通信

    Published 2022/12/30 08:17 (JST) Updated 2022/12/30 10:15 (JST) 米ロサンゼルス現代美術館や茨城県のつくばセンタービルなどの設計で知られる国際的建築家の磯崎新(いそざき・あらた)さんが28日午前10時半、老衰のため那覇市の自宅で死去した。91歳。大分市出身。葬儀は近親者で行う。喪主は長男宙(ひろし)氏。 丹下健三さんに師事し、磯崎新アトリエを設立。大分県立大分図書館、群馬県立近代美術館で日本建築学会賞。ポストモダン建築のリーダー的存在だった。 1996年のベネチア・ビエンナーレ国際建築展では日本館コミッショナーを務め、阪神大震災の廃虚を再現した展示が最高賞の金獅子賞を受けた。2019年にプリツカー賞を受けた。

      国際的建築家、磯崎新さんが死去 ポストモダンのリーダー | 共同通信
    • 欧米人と日本人の考え方の違いと、日本を揺るがした「あの事件」の裏話─「ノエマ」編集長が語る日本 | 加藤周一や磯崎新の分析は当たっている

      ──日本では、数値的・物理的な「事実」や個別の「データ」を重視するあまり、哲学的な概念や立場を重視せず、貶めることさえあります。その傾向は欧米でも見られるのでしょうか。 あるとも言えますが、欧米と日本では文化的な背景が違うのではないかと考えます。 東洋の文化はより実存的な事実から出発するのに対して、西洋の文化は観念から出発します。そのため、日本は、ある種の集団的な実存主義だと言えます。つまり、誰もが相互に結びつきを持っており、みんなが直面する現実に合わせて容易に考えを変えてしまいます。考えを変えても、それは観念的な矛盾にはならず、問題ともみなされないということです。 反対に西洋では、自らの観念的な立ち位置と相容れない個別の選択は「矛盾」になります。たとえば、保守主義者を自称し市場を持ち上げている人が、電気自動車への補助金政策を望むなどということは「矛盾」なわけです。観念が先行し、その観念の

        欧米人と日本人の考え方の違いと、日本を揺るがした「あの事件」の裏話─「ノエマ」編集長が語る日本 | 加藤周一や磯崎新の分析は当たっている
      • 磯崎新が91歳で逝去。建築史に大きな足跡残す

        磯崎新が91歳で逝去。建築史に大きな足跡残す日本を代表する建築家として知られる磯崎新が、12月28日に逝去した。91歳だった。 世界的な建築家としてその名が知られる磯崎新が12月28日、老衰のためこの世を去った。91歳だった。 磯崎は1931年大分県生まれ。54年に東京大学工学部建築学科を卒業し、丹下健三の指導のもとで建築家としてのキャリアをスタートさせた。63年には建築事務所「Arata Isozaki & Associates」を設立し、約60年にわたってアジアやヨーロッパ、北アメリカ、中東、オーストラリアなど、世界各地で100以上の作品を手がけた。 重要作としては、北九州市立美術館(1972〜74、福岡)、水戸芸術館(1986〜90、茨城)、アリアンツタワー(2003〜14、ミラノ)、カタール国立コンベンションセンター(2004〜11、ドーハ)、上海シンフォニーホール(2008〜14

          磯崎新が91歳で逝去。建築史に大きな足跡残す
        • 建築家 磯崎新さん死去 ポストモダン建築の旗手 国際的に評価 | NHK

          ポストモダン建築の旗手として注目を集め、「建築界のノーベル賞」とも呼ばれるプリツカー賞に選ばれるなど、国際的に高い評価を受けた建築家の磯崎新さんが12月28日、老衰のため、那覇市の自宅で亡くなりました。91歳でした。 磯崎さんは1931年に大分市で生まれ、1954年に東京大学工学部建築学科を卒業して大学院では日本を代表する建築家の丹下健三氏に師事しました。 1963年にアトリエを設立し、初期の代表作となる旧・大分県立大分図書館や北九州市立中央図書館など、地元の九州地方などで次々と建築物を手がけました。 また、1983年に完成した茨城県の「つくばセンタービル」は、画一化された近代建築への批判を込めたポストモダン建築の代表作とされ、国内外からポストモダン建築の旗手として注目されました。 このほか、ロサンゼルス現代美術館やバルセロナオリンピックの屋内競技場など世界各地で作品を手がけ、国際的に高い

            建築家 磯崎新さん死去 ポストモダン建築の旗手 国際的に評価 | NHK
          • 建築界のレジェンド 磯崎 新という謎 - T JAPAN:The New York Times Style Magazine 公式サイト

            中秋の名月の翌9月14日、満月の夜に群馬県渋川市にある「ハラ ミュージアム アーク」に建築関係者ら約200名が集った。今年88歳を迎えた建築家、磯崎 新の米寿を祝うためだ。ハラ ミュージアム アークは東京にある原美術館の別館で、設計は磯崎が手がけた。広大な敷地にはオラファー・エリアソンやアンディ・ウォーホルの作品が点在し、美術館の一角をなす「觀海庵」では『縁起』と題した磯崎の展覧会も前日から始まった。 大型バス3台に分かれて会の参加者が到着する。その中には建築家の妹島和世や青木 淳、石上純也らの顔も見える。日が暮れる前にホンマタカシによる集合写真の撮影が行われ、会が始まる。お祝いのスピーチの先陣を切るのは、磯崎 新アトリエの元所員、渡辺真理(まこと)だ。「磯崎さんの周囲には、常に新しく謎だらけの興味深いプロジェクトが渦巻いていて、見とれているといつの間にか自分も巻き込まれ、大変な困難に直面

              建築界のレジェンド 磯崎 新という謎 - T JAPAN:The New York Times Style Magazine 公式サイト
            • 磯崎新による丹下健三への弔辞

              荒くれインディペンデント批評誌『アラザル』です。2017年はVOL.10を刊行、予定。バックナンバーはこちら→ https://arazaru.stores.jp/ Twitter: @arazaru 磯崎新による丹下健三への弔辞 丹下健三先生 先生の手がけられた数多くの建築のなかでも、とりわけ気品にあふれ聖なる空間へと昇華したかにみえる、もっとも気に入ったおられたに違いないこの東京カテドラルに、今日は大勢の弟子どもが参集しております。 おわかれに来たのではありません。たった一言でもいい。最後のお言葉を聞きたい。<建築>そのものに化身されていた先生のお言葉がまだ聞けるのではないか、そんな想いでここにいるのです。 お前たち、本当に俺の弟子か、とにが笑いなさっているかも知れませんが、私たちは皆、そのように考えております。あるものは直接手をとって教えていただきました。あるものには鋭く行く先を示さ

              • 磯崎新さんが死去 ポストモダン建築をリード、国際的に活躍 | 毎日新聞

                茨城・つくばセンタービルや米ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した建築家、磯崎新(いそざき・あらた)さんが28日、老衰のため死去した。91歳。葬儀は近親者で営む。喪主は長男宙(ひろし)さん。 大分市出身。東京大建築学科に入学、故丹下健三さんに師事し、故黒川紀章さんらとともに丹下研究室に在籍した。在籍中に、地元大分の政財界からの依頼で「旧大分県立大分図書館」(1966年、国の登録有形文化財)を設計、前後してアトリエを構え独立した。 70年の大阪万博では丹下さんのもとサブプロデューサーとして「お祭り広場」などの構想、設計にかかわった。代表作は幾何学的な図柄や異素材を組み合わせ、ポストモダン建築と評されることの多い「つくばセンタービル」(茨城県つくば市・83年)や「水戸芸術館」(90年)、巨大な楕円(だえん)体の「なら100年会館」(奈良市・98年)など

                  磯崎新さんが死去 ポストモダン建築をリード、国際的に活躍 | 毎日新聞
                • 追悼 磯崎新

                  磯崎新は追悼文の名人であった。『挽歌集』(白水社、2014年)と題して追悼文だけをまとめた本さえ遺した。紋切り型に流されず、ごく個人的な亡き人との思い出を語るようでいて、読むにつれたしかにそうであったと思いを致すことになる、そんなテクストがそこに並ぶ。だからなおさら磯崎新の死を受けて、これを書く荷は重い。 ことは単に文章がうまいへたの問題ではない。文字通り、同志を送る言葉を骨身を削って綴っていた。磯崎が体調を崩したきっかけの、すくなくともひとつは荒川修作の追悼文だったように思う。荒川が芸術の枠に収まりきらないプロジェクトに賭け、しかし思うように理解を得られないことも多い、その孤独への哀悼がテクストに刻まれている。もちろんその心労だけではなかったろうが、書き上げた後しばらく伏せって、持ち直しはしたが、なかなか本調子とはいかなかったのではないか。 その頃から磯崎は、もう自分にできることは「翁の

                    追悼 磯崎新
                  • 占拠されたトリエンナーレ、都市デザイナー・磯崎新が直面した“運動の喪失”

                    1962年8月25日。当時、磯崎新が住んでいた東京都文京区駕籠(かご)町の家に、何十人もの人々が詰めかけた。20代の美術家の吉村益信、篠原有司男らに加えて、丹下健三(建築家)、伊藤ていじ(建築史家)、岡本太郎(美術家)、瀧口修造(美術評論家)、土方巽(舞踊家)、一柳慧(作曲家)といった、そうそうたる顔ぶれがそろった。 まもなく渡米する吉村の壮行会というのが一応の趣旨だったが、建築と様々な芸術分野との衝突を期待する思惑もあっただろう。案内状には「Something Happens」と書かれていた。その期待に応えてか、吉村は血が出るまで歯を磨くパフォーマンスを披露し、土方と篠原は磯崎邸の屋根に上って裸踊りを繰り広げた。閑静な住宅街にパトカーで警官が駆けつける。翌朝、責任者として警察署に出頭したのは磯崎だった。 吉村や篠原といった若い美術家たちと、磯崎の関係は深かった。吉村は磯崎の高校の後輩で、

                      占拠されたトリエンナーレ、都市デザイナー・磯崎新が直面した“運動の喪失”
                    • 磯崎新さんの原点は大分に 出世作「旧大分県立大分図書館」は現役:朝日新聞デジタル

                      大分県出身の世界的建築家、磯崎新さんが死去した。九州各地に代表作が現存し、親交の深い人も多かった。 大分市美術館長の菅章さん(69)は「大分は磯崎さんの建築の原点。大分が自分を育ててくれたという強い思いがあった」と振り返る。 磯崎さんとの関わりは1998年、大分市の旧県立大分図書館がアートプラザに衣替えした時からだ。 旧県立大分図書館は66年完成。日本建築学会賞などを受け、磯崎さんの出世作と言える。一時は解体が検討されたが、市民らの求めで保存され、文化施設として生まれ変わったのがアートプラザだった。 磯崎さんは「前衛の精神を共有した展覧会を開きたい」と、前衛美術集団「ネオ・ダダ」の展覧会を提案した。60年に結成された「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」は、がらくたを使ったオブジェなどで注目を集めたが、作品はほとんど残っていなかった。 市の担当者だった菅さんが「作品が残っていないので、展覧会

                        磯崎新さんの原点は大分に 出世作「旧大分県立大分図書館」は現役:朝日新聞デジタル
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