泳いで逃げようとする者、杭木でイカダを組んで抜け出そうとする者―「ケツ割り」と呼ばれた脱走を試みる人もしばしばあった。(略)津代次さんも、ケツ割りに失敗しておぼれかかった男を船で助けたことがある。 しかし、水死を免れても、脱走未遂は納屋頭と呼ばれた、いまでいう寮長から半殺しの目にあわされることを覚悟しなければならなかった。 敗戦が近づき、男手も少なくなると、中国人の捕虜や朝鮮人が大勢連れて来られた。日本人坑夫の住んでいるところからは離れたところにまとめてほうり込まれていたが、狭い島のことである。いまでも喜代さんは、その人たちの叫ぶとも泣くともつかぬ悲しい声が耳に残っている。 一度だけ声のする部屋をのぞいたことがある。たぶんまだ、はたち前とみえた、朝鮮人の若い男が正座させられ、ひざの上に大きな石をのせられていた。 敗戦後間もなく、この人たちは本国に帰ったらしい。彼らをいじめぬいた会社の外勤係