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2006年10月12日のブックマーク (5件)

  • 僕らは多くの愛すべき「キモイ」に囲まれている - 女教師ブログ

    私たちは多くの愛すべき「キモイ」に囲まれている。たとえば、自分や友人にとって「当たり前」の生き方や考え方、それが実はけっこう「キモい」ものであると気づかないのは損、大いなる損だ。 livedoor ニュース - 個人ブログで「悪口」 それはもう危険なのだ「昨日・今日はモーニングな娘っ子達が●●文化会館でライブしに来ちゃってたらしいですよ。Mック●●店オープン後、初の土日なのにそんなイベントはえぐいっす。普段のお客さまプラス奴らがやってくる…。そう、モーヲタ達。(中略)『○○ちゃんまじかわいいよな〜』『お前さぁ。そんなに言うならそのかわいさをレポート○枚に書き連ねて来いよ〜』『無理言うなよ〜。おさまんねーよ〜』だと…。あっはっは!!き・も・い・ぞwwww」 あああぁぁぁ、もったいない、もったいない。世界はもっとキモイことで満たされているのにー。モーヲタを見たくらいで「キモい」だなんて、あああ

    sarutora
    sarutora 2006/10/12
  • 旅する読書日記 ロックンローラー、オノ・ヨーコ

    Amazonマイストア 鈴木先生 3 越境の時 イッツ・オンリー・トーク 沖で待つ 星新一:一〇〇一話をつくった人 表現のための実践ロイヤル英文法 知識の哲学 ロボットの心 猛スピードで母は デカルト―「われ思う」のは誰か これが現象学だ 縷々日記 その名にちなんで 停電の夜に とっても平凡なことを、自分では気が利いたことのつもりで、大声で言うタイプの人がいる。もちろん個々の発言については、僕だって多々そういうことはあると思えば恥じ入るしかないのだが、そもそもそういうことしか言わない、言えない人がけっこういるように思うのだ(だから「タイプ」と書いた)。  そういう人のありがちな習性として、攻撃されるのが普通の人を、普通のやり方で攻撃するという行動がよく見られる。そしてそれを何か、言っている人だけは、いかにも鋭いことを言っているつもり

    sarutora
    sarutora 2006/10/12
    サルトルも「そういう攻撃対象の代表格」に思えるんだよね。この話題しつこいけど
  • 母性の象徴としての「胸」(今更だけど) - 美徳の不幸 part 2

    昨晩は、僕が卒論中間発表のレジュメを待っていた学生たち(Tさん、O田さん、K藤さん)がみんなして「今日中にできません」とギブアップ宣言(笑)したので、早めに帰宅し、晩酌しながら(梅酒ソーダということをが自分でも可愛いと思う)、チャングムを見て「わあ、ヨンエたん、最高尚宮の髪型が似合わないぃぃぃ」とか、サッカー番組にチャンネルを変えて「うおお、セレッソ引き分けで、福岡が勝ちやがった。鹿島手を抜きやがったな」とか、「おおお、ホークス、松坂に完封負けかあ」とか興奮しながらザッピングしていたら、酔いが醒めるのと同時に当に目がランランと冴えちゃって、教え子のTさんが「宮崎アニメのヒロイン像」というテーマで卒論を書こうとしているので、自宅にあるナウシカを読み返して、益々夜更かし(長い前振りで済みません)。 風の谷のナウシカ 7 作者: 宮崎駿出版社/メーカー: 徳間書店発売日: 1994/12/01

    母性の象徴としての「胸」(今更だけど) - 美徳の不幸 part 2
  • 上野千鶴子の「『マザコン少年の末路』の末路」の末路

    上野千鶴子の「『マザコン少年の末路』の末路」の末路 黒木 玄 最終更新:1999年9月18日 私の感想、『末路』、「『末路』の末路」、冨田、前田、リンク集 私の感想 以下は、上野千鶴子著『マザコン少年の末路』 (河合ブックレット1、河合文化教育研究所、第1刷1986年、増補改訂1994年) と『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』 (河合おんぱろす増刊号、河合文化教育研究所、 1994年) の 2 冊を読んでの感想です。 1985年、河合塾大阪校は、上野千鶴子の講演会を企画しました。そして、その次の年に、それをもとにして作られたブックレット『マザコン少年の末路』が河合文化教育研究所から出版されています。そのブックレットは順調に売り上げを延ばし続けたのですが、 7年の1993年の1月下旬に、ある質問状が著者の上野千鶴子と河合文化教育研究所に届いたのです。『マザコン少年の末路』

    sarutora
    sarutora 2006/10/12
  • 「遠い目標」で満足できるか? - 猫も歩けば...

    というわけで、柄谷行人さんの「マルチチュード」論を読んでみて(id:r_kiyose:20060911)、もういちどネグリとハートの「マルチチュード民主主義」論を読み直してみないとな、と思って、読み返してみた。 で、感じたのは、やっぱりもう一つよくわからないな、ということだった。個々の部分に書いてあることはそんなにわかりにくくはない。しかし、じゃあ、「マルチチュードの民主主義」って何なのか、それはどうやって実現するのかということになると、なんかよくわからないというのが実感だ。 まず、「〈帝国〉」状況のなかで、「代表」制が機能しなくなっているという現状分析は、これは理解できる。 「〈帝国〉」とは、全世界をつなぐネットワークの上に成り立つ権力だ。全世界に成立しているのでその「〈帝国〉」には外部が存在しない。 で、その「〈帝国〉」はどう支配されているかというと、単独超大国のアメリカ合衆国があり、

    「遠い目標」で満足できるか? - 猫も歩けば...