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ブックマーク / kenmogi.cocolog-nifty.com (22)

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 連帯保証人の制度について

    毎日新聞が、次のようなニュースを報じている。 銀行や貸金業者が中小企業などに融資する際に求めてきた個人保証について、法制審議会(法相の諮問機関)が原則として認めないとする民法改正案を格的に検討することが分かった。 http://mainichi.jp/select/news/20130218k0000m010107000c.html この動きを歓迎する。同時に、これでも十分ではないと考える。 まず、同記事中にある「経営者人が会社の債務を保証する「経営者保証」は例外として認める案が検討されている。」という点。 経営者人でも、その私的生活と、会社の運営に供される資金は、性質が違う。両者は混同されるべきではない。 会社の経営が破綻しても、個人資産にその累が直ちに及ぶべきではない。もちろん、経営者が、自主的に個人資産で弁済することもあるだろう。しかし、それを法的義務とすべきではない。 また、

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 民主党による政権交代の後に起こったこと。

    茂木健一郎 次の総選挙が近いと言われている。日をよりよい国にするために、私たちが直面している政治的な課題は何か。今後の日の道筋を見極めるために、直近の過去を振り返って整理しておきたい。 2009年の民主党による政権交代は、戦後ずっと続いていた自民党による長期政権に終止符を打ち、日にも、世界の民主主義国で標準的な格的な政権交代のスキームをもたらすものとして注目され、期待された。 課題になっていたのは、日の統治機構の立て直しであった。戦後、長期政権が続いてきた中で、官の力が強くなりすぎたと多くの人が感じていた。民間の活力に基づく国の再生を図らなければ、日の復活はないと考えられていたのである。 ここで、大前提として確認しておくべきことは、民主党が政権交代の課題として挙げた構造改革や、霞ヶ関の統治機構の立て直しは、統治機構をよりインテリジェントで「筋肉質」のものにするという意味で国の発

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 私にラベルを貼ってください!

    かつては、右だとは左だとか、リベラルだとか保守だとか、国際派だとか国家主義者だとか、いろいろなラベルが有効だったのかもしれないけれども、今や時代が複雑になりすぎて、ある見解だけで一人の人をラベル付けするのは困難だと感じている。 そもそも、人によって意見が違うのは当たり前。仮の10の政策があり、YES/NOの確率が1/2だとするとすべて一致するのは1024人に一人である。もちろん実際には分布に偏りも相関もあるわけだが、見解が異なる人と共生し、意見を交換していかなければこの世はもはや成り立たない。 以下に、私、茂木健一郎の見解を列挙します。 皇室 伝統を最大限に尊重。皇室典範の改正問題については、慎重に検討。何よりも今上天皇、皇族方のご意向が大切。 国旗 日の丸が、国旗 国歌 君が代が、国歌 教育条例 卒業式などにおける、国旗、国歌に対する特定の行動の形式的強制には反対。ちなみに、私自身は立つ

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    seuzo 2012/04/26
    わたしを束ねないで
  • 茂木健一郎 クオリア日記: ユニクロによる「通年採用」の開始について

    昨日発表された、ユニクロによる、「学年、新卒・中途、国籍を問わない」かたちでの「通年採用」の開始を、心から歓迎するとともに、ユニクロの英断に賛辞と敬意を表します。 ユニクロの方針は、社会に付加価値を提供し、自らも利益を上げ、仕事にかかわるものが人生を全うするという企業経営の合理性をつきつめた結果だと私は考えます。 日の企業において一般的な「新卒一括採用」の慣習は、学生から貴重な勉学の機会を奪うだけでなく、多様なキャリア形成という今日の世界においてもっとも大切な価値を損ない、結局は企業の人的資源を劣化させるものであり、一日も早い是正が望まれます。 ユニクロの先端的な試みが日の他の企業にも広がり、グローバル化する世界において、真に付加価値を生み出す企業が日からさらに生まれていくことを、国を愛するひとりの人間として心から願うものです。 2011年12月21日 茂木健一郎 参照: ユニクロ、

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    seuzo 2011/12/21
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 日本八策

    八策 近代日の夜明けにおいて重要な役割を担った坂龍馬は、「船中八策」の想を練った。日は困難な時代を迎え、新たな発展へのヴィジョン、改革の処方箋を必要としている。ここに、日の未来を切り開くための「日八策」の私案を発表する。 2011年12月13日 茂木健一郎 kenmogi@qualia-manifesto.com 日八策(1)インターネット、グローバル化という「偶有性」の文明の波が押し寄せる時代。福澤諭吉が「適塾」で示したような、寝を忘れて猛勉強する精神を復活させる。「知のデフレ化」の逆転。吉田松陰が松下村塾で講じたように、現実の状況に安易に妥協せず理想を貫く「心の整え方」を磨く。 日八策(2)記者クラブに象徴されるマス・メディアの守旧体勢、独占体制を改め、真のジャーナリズムを醸成するための方策を実現する。メディアを、既得権益層の自己保身の手段とせず、日を先に進める改

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 象の時間、ジャガーの歩み。

    打ち上げで盛り上がっているときに、仕事の都合などで先に帰らなくてはならないばあいは、ぼくはできるだけひっそりと消えることにしている。 墓場にひとりいく象のように。 ニコニコ生放送の打ち上げで、木村仁士さんが「ヒッチコックの裏窓を一年かけてみる」とかおもしろい話をしていて、植田工がひっひ笑っていて、盛り上がっているけれど、そろそろ象にならなくてはならない。 植田! とちょっとよんで、こそこそと消えた。 サヨナラして、移動しながら、さっと仕事を始めている。 そんなとき、あとで、まだみんなが盛り上がっているだろうな、と想像することに、独特の楽しみがあって、どうなっているんだろうなあ、と思う。 朝になってツイッターを見たら、植田たちはどうやら午前4時くらいまで飲んでいて、それから植田は家にむかってひたすら歩いたらしい。 @onototo 象の時間、ジャガーの歩み。 植田のあだながジャガーになったの

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    seuzo 2011/12/08
    「打ち上げで盛り上がっているときに、仕事の都合などで先に帰らなくてはならないばあいは、ぼくはできるだけひっそりと消えることにしている。」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 田中角栄氏に関しての連続ツイート

    昨日深夜の田中角栄氏についての連続ツイートを、ここにまとめて掲載します。 茂木健一郎 金曜またぎの深夜でもあるし、帰って来ながらいろいろ考えたので、いつもは朝やる連続ツイートを、もう少ししたらやりたいと思います。 角栄(1)あれは数年前だったか、学生たちとカラオケをしている時に、「まあ、その〜国民のみなさまにはですね、まあ、その〜」と田中角栄のものまねをしたら、誰もわからなかった。昭和を象徴するあの人のダミ声を知らない世代が生まれてきているのだと知り、ショックだった。 角栄(2)その頃から、なぜか、田中角栄さんのことが気になった。最近になって、いろいろな意味で田中さんと比較される小沢一郎さんについての、マスコミの報道ぶりを見ていて、なぜ角栄さんのことが気になっていたのか、わかった気がする。角栄さんは、私たち日人にとって、一つの「宿題」なのだ。 角栄(3)田中角栄さんは、高等小学校と中央工

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 言葉って、何を交わしているかではなく、交わしていること自体に意味があるのだろう。

    講演会場で、登壇前に着替えるなどと言って、そのままどこかに行ってしまう。 階段を下りると、生け花展をやっていた。「見ていいのですか」とかなんとか言って、入っていく。 いろいろな流派の人がやっている。それぞれ、一生懸命活けたのだろう。結局、人と向き合っている、そんな気がする。 いよいよ観念して会場に戻った。シャツとジャケットに着替えたら、そろそろ時間だ。 「入場です!」と言われて並んだ椅子の間を、拍手を受けながら歩いていく、とまどって、いたたまれなくて、さっと早回しで済ませてしまいたくなる。 会場にいらした方の顔を拝見しながら、懸命にお話しする。笑っていただいたらいい、肯いていただけたらいい、時には、ほろりと泣いてくださってもいい。 あと15分で、「何かご質問はないでしょうか」と切り上げる。でも、当はこの言葉以外の何かを発したいのだ。 音の一方通行のまま終わるのがイヤだ。音を発するだけでな

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 京都大学等におけるカンニング事件について

    今回の京都大学をはじめとする入試における「カンニング事件」は、いろいろな意味で心が痛む。 京都大学が被害届けを出し、「偽計業務妨害罪」でカンニングをした学生が逮捕されるに至ったことに、強い違和感を覚えるものである。 その理由の第一は、「大学の自治」、「学問の自由」にある。 入学者をどのように選考するか、という問題は、「大学の自治」の根幹にかかわるものと考える。どのような資質を持った人から、大学を構成するかということは、大学における学問、研究、教授の基礎をなすものであり、大学が、もっとも大事にしなければならない点である。 1952年の「東大ポポロ事件」に見るように、かつては、大学の自治はもっと大切にされ、さまざまな議論があったと思う。今回の事件において、京都大学の関係者が「被害届け」を出してしまったことは、「大学の自治」の点から疑問である。日の大学が、大きく変質してしまったことを感じる。

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    seuzo 2011/03/04
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 海で荒波にもまれている漁師が、数日間陸に上がる、そのような狭間

    歌舞伎役者というものが、いかに過酷な稼業であるか、なかなか想像できるものではない。 公演が始まれば、ほぼ一ヶ月、休みなしで演ずる。一番大変なのは、昼夜通し公演で、朝から晩まで、休みなしに台詞を吐き、舞台を飛び回り、見得を切らなくては行けない。 声を整え、体調を維持する。その努力は大変なものである。だから、公演中は、市川海老蔵さんは文字通り劇場と家、あるいは宿舎を往復するだけで、お酒を呑んだりといったことは基的にしない、そのように聞いている。 歌舞伎役者のオフは短い。公演が終わって、次の公演まで数日間。その間に稽古をつけ、台詞を覚え、初日はもう完璧にこなさなければならない。 それは、人間だから、気晴らしは必要だろう。その息抜きを、公演の狭間のわずか数日でやらなければならない。連日飲み歩いているのではない。海で荒波にもまれている漁師が、数日間陸に上がる、そのような狭間でのことなのである。

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    seuzo 2010/11/26
    役者にとっては社会のルールよりも舞台のルールの方が重い。自分にしか立てない舞台に立つこと、それ以外はどうでもよいことだろう。
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 全力で振り切ること

    子どもの頃、草野球をするのが好きだった。王貞治選手の真似をして、一足打法をした。 ぼくたちのルールでは、公園にあるブランコを超えるとホームランだった。小学校5年生の夏、一番熱心に草野球をした。確か、「ホームラン」を50くらいは打ったんじゃないかと思う。 そんなことをするうちに、バットを全力で振り切る喜びを覚えた。三振しようが何だろうが、とにかくバットを思い切り振る。空振りしようが何だろうが、全力で振り切ると、爽快だということを、子ども心に知った。 草野球が楽しかったのは、その世界が青天井だったからだろう。室内で、上にガラスの天井があると思っていたら、バットを全力で振り切ることなどできない。頬をなでる風も、ぼくを照らす太陽も、すべて、バットを振り切ることを応援してくれていた。 大人になっても、質は変わらない。バットを全力で振り切ること。何よりも、そのような行為が出来る、青天井の環境を求

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    seuzo 2010/07/22
    「ぼくたちのルールでは、公園にあるブランコを超えるとホームランだった。」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 「藩」の正体は、「脱藩」して初めてわかる。

    龍馬は、満26歳の時に、和霊神社に参拝し、水杯で武運長久を祈り、そして、「脱藩」していった。土佐藩という「組織」から離れてひとりの人間として自由に活動したことが、その後の「海援隊」結成、「薩長同盟」締結、そして「大政奉還」の実現といった偉業を成し遂げる上での基盤となった。 ここで興味深い事実は、龍馬の生きていた江戸時代には、「藩」という言葉はなかったということである。一部の用例を除いて、「藩」という呼称が使われることはほどんどなかった。明治に入り、いわば旧時代の体制を認識するための概念として「藩」という呼称が使われるようになったのである。 その藩も、1869年に諸大名が天皇に領地、領民を返還した版籍奉還、さらには「藩」を廃して「府」や「県」とした1871年の「廃藩置県」によって解体され、消滅することとなった。1867年の「大政奉還」からわずか4年。「藩」という呼称が広く使われるようにな

  • 茂木健一郎 クオリア日記: ギャップ・イヤー

    東京の某所のカフェで、仕事をしていた。たくさんやらなくてはならないことがあって、ちょっとあせっていた。 ふと顔を上げると、ヨーロッパから来たらしい青年が、前のテーブルに座っていた。バックパックを背負い、真剣な顔をしてを読んでいる。そのが、Roger PenroseのEmperor's New Mindだったので、思わずはっとした。 ちょっと背伸びをするふりをして、テーブルを立って、滅多にそんなことはしないのだけれども、声をかけてみた。 「こんにちは、失礼ですが。ペンローズを読んでいるんですね?」 「ああ、はい。」 「学生さんですか?」 「いや、そうではありません?」 「旅行中?」 「はい。去年、大学を卒業ました。」 「どこの大学を出たのですか?」 「ケンブリッジ大学です。」 「ああ、ぼくもケンブリッジに留学していました! 何を専攻していたんですか?」 「物理学です。」 「じゃあ、ぼくと

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    seuzo 2010/04/01
    「日本人は、いつから野生を失ったのか。 ぼくは、果たして野生を持っているのか? 」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: ひたすら走れ。権威や組織と関係のない、自由な空気を吸うひとりの個人として。

    桑原茂一さんにお誘いを受けて、いわき市のアリオスでお話しした。 トーク×アリオス#3「笑いと脳」 お話したかったことは、「当のこと」に向き合って、サッカーの選手がハーフタイム中ピッチの上を走り回るように、一生懸命生きていれば、日のどこにいようと、組織に関係していようとしていなかろうと、関係のない時代が来ているということ。 自分自身がかかわる感覚と運動の「偶有性」をどのように設計するかが問われているのである。 いわきのみなさん、一緒に頑張りましょう。 終了後、茂一さんと、いろいろ話す。 これからは、間違いなく乱世で、魂における下克上であり、それは厳しい愛の実践でなければならず、オシム前日本代表監督の言葉ではないが、「走れ、走れ、走れ」である。 ひたすら走れ。権威や組織と関係のない、自由な空気を吸うひとりの個人として。

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    seuzo 2010/03/01
    「ひたすら走れ。権威や組織と関係のない、自由な空気を吸うひとりの個人として。」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 「レール」から外れた人たちにこそ

    昨日、リクルートスーツのことを書いたが、それ以外にも、日の就職の慣習には理解し難いことが多い。 そもそも、なぜ横並びで在学中に就職活動をしなければならないのか? そのような慣習に黙々と従う人だけでなく、そのようなことはイヤだと別の道を行く人の中にも、有為な人材がいる可能性はきわめて高い。 「履歴書に穴が開く」などというわけのわからないことを言う人がいる。日人は、いつもどこかの組織に「所属」していなければならない、飼い犬なのだろうか? それでは、江戸時代と同じだ。実際、江戸時代はまだ精神性においては続いているのかもしれない。 何度か書いたことがあるが、イギリスにはギャップ・イヤーという慣習があり、高校から大学に行く時に、あるいは大学から就職する時に、しばらくどの組織とも関係なく、一人で旅をしたり、ボランティア活動をしたりする人が多い。たとえば、大学を出てからギャップ・イヤーに入り、しばら

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    seuzo 2010/02/25
    生後間もない幼犬ならばよくなつくと思い込んでいる、犬のことなど何も知らない犬のオーナーみたいなもの。
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 制服のようなリクルートスーツ

    街を歩いていて、ある会社の前を通りかかった時、一斉に女性たちが出てきた。年齢や格好からして、どうやら就職活動をしている学生たちらしい。 彼女たちの人生が楽しく、やりがいのあるものであれば良いと思う。うまく就職できれば良いのだけれども。 それにしても驚くのが、どうやら世間には「リクルートスーツはこのようなもの」というスタイルがあるらしく、一様に判を押したように皆それを着ているということ。 誰がこうしろ、と決めたわけではなく、いつの間にか皆そのような格好をするようになっているらしい。 学校の制服ではあるまいし、誰もがそんな格好をしなければならない理由が、どこにあるのだろう。 そもそも、日の企業の採用は、大学三年の冬から活動が始まるなど、理解し難い部分が多い。 当に人事が必要な有意な人材を採ろうと思っているのならば、通年採用、新卒プレミアム一切なしという判断をするのが合理的なはずなのだが。

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    seuzo 2010/02/24
    日本の企業は才能などほしがらない。勉強もそっちのけで規格品になれる人間を欲しがっているのだろう
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 人生には、本当はこれが最後ということがたくさんあって

    中学校の時、秋に学校からみんなで遠足に行ったのが楽しかった。時々、そのことを思い出す。 なぜ楽しかったのだろうと考える。まず、みなが同じ赤のジャージを着ていた。今考えればみっともない格好かもしれないが、一人だけでなく、みんなで同じみっともなさを共有するのが良かった。 よく晴れた日だった。河川敷につくと、ススキの穂が風に揺れていて、太陽の光がきらきらと光っていた。トンボが飛んでいた。風が吹くと少し寒かったが、基的にはぽかぱかと温かかった。 空間が、広々としていた。土手の斜面を緩やかに下って、行列から少し離れることもできた。みんなと歩く空間の位置とりに、それぞれの個性が出ていた。お互いに、相手がどこにいるのか、視野の隅の方で確認し合った。 弁当の時間になると、思い思いに座って、わいわい騒ぎながらべた。女子たちはおかずを交換して楽しんでいた。ぼくたちは、あっという間にべ終わってしまって、キ

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    seuzo 2010/01/31
    『人生には、本当はこれが最後ということがたくさんあって、だけどそのことに気付かずにぼんやりしているから、ぼくたちは後悔する。その一方で、だからこそ気楽に暮らしているということもあるのだ。』
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 電子出版の動き

    新潮社で仕事。それから、Brusselsで話をした。北壮さん、葛岡晃さん、金寿喚さんといったおなじみの顔ぶれ。 話題の一つが、電子出版の動きだった。Amazon KindleやSony e-book reader, 発表間近のAppleのtabletなど、ここのところ電子的にを配信し、読む動きが加速化している。 出版の未来はどうなるのか。私が心から尊敬する編集の方々の顔を眺めながら、この人たちの役割がなくなることはないだろうと思った。 は、ただ自分一人で書けば良いというものではない。企画をどう立てるか。客観的に見て、どのような文脈にそれは入っていくのか。内容に誤りはないか。著者と編集者がさまざまなやりとりをする中で、初めてが形をなしていく。 著者だけだと、どうしてもモノローグになる。もちろん、理念的には、熟達した著者が編集者の役割も自ら兼ねて仕事をしていくということは考えられるが、

  • 茂木健一郎 クオリア日記: ベージュ色のぬた

  • 茂木健一郎 クオリア日記: プラクティカルなアドヴァイス

    ここのところ何をしている 時間が一番楽しいかといえば、 「勉強」ということになろうか。 際限がない。昨日移動しながら 読んでいたのはOrigin of Species とThe Greatest show on earth。 夜からはLeo TolstoyのThe Gospel in Briefを 読み始めた。 これは、Wittgensteinが読んで、 感激し、とにかく周囲の人に 勧めて回ったので、一時期「福音書の男」 と言われたといういわくつきのである。 塩谷賢のお師匠さんだった 廣松渉さんには、一度だけ お目にかかったことがある。 その御著書の、きわめて難解な 印象とは異なり、 まるで春風のようにさわやかな人だった。 その廣松さんが、塩谷に、 「勉強というのは、一日三千頁読まないと ダメだ」 と言ったそうである。 それを聞いて、ぼくは「うへー」と驚いたが、 当に学問をやろうとした

    seuzo
    seuzo 2009/12/29
    「学問というものは、 基本的に「無償」のものだと思う。」