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ブックマーク / mag.japaaan.com (28)

  • 実は「超」が付くほど女好き?徳川慶喜への経済支援も行った「渋沢栄一」ってどんな人? : Japaaan

    2024年上半期に、紙幣が一新されることになりました。その、一新される1万円札に印刷されるのが、今回紹介する「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」です。 紙幣の、しかも一番高額な1万円札に印刷されるぐらいですから、立派な人であったことは間違いありません。 それでも、実は「超」の付く女好きだったという驚きのエピソードもあります。 渋沢栄一とは 渋沢栄一は、埼玉県出身の実業家です。 有名企業や銀行を創設しており、栄一が関わった企業は500を超えるとも言われています。そして、その功績から「日経済の父」や「日主義の父」と呼ばれている人物です。 実業家になる前、栄一は、明治政府の官僚をしていました。 そのとき、フランスで行われていたパリ万博へ視察に行き、「日の近代化」の必要性を感じて実業家に転身しています。 渋沢栄一が設立に携わった会社 栄一は、現代でも活躍し続ける下記のような会社を設立し、日

    実は「超」が付くほど女好き?徳川慶喜への経済支援も行った「渋沢栄一」ってどんな人? : Japaaan
    shinchi
    shinchi 2021/06/07
  • 大河ドラマ「青天を衝け」で渋沢栄一の人生を変えた男・平岡円四郎の生涯 : Japaaan

    大河ドラマ「青天を衝け」に登場する平岡円四郎(ひらおか えんしろう)。 堤真一さん演じる円四郎は、旗の息子でありながら放蕩無頼の生活を送っていたところ、後に江戸幕府の第15代将軍となる徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)の小姓となったことから才覚を発揮。 そのころ、尊皇攘夷に燃えていた若き志士・渋沢栄一(しぶさわ えいいち。主人公)と出逢い、栄一の人生に大きな影響を与える……という設定ですが、実際のところはどうだったのでしょうか。 また、円四郎の・やすについても気になるところ……そこで今回は幕末に活躍した平岡円四郎の生涯をたどってみたいと思います。 徳川慶喜に仕え、不遇の時代を乗り越える 円四郎は江戸時代末期の文政5年(1822年)10月7日、旗である岡忠次郎(おかもと ちゅうじろう)の子として生まれ、同じく旗であった平岡文次郎(ひらおか ぶんじろう)の養子に出されます。 幼少のころか

    大河ドラマ「青天を衝け」で渋沢栄一の人生を変えた男・平岡円四郎の生涯 : Japaaan
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    shinchi 2021/05/22
  • 幕末の京都での奇跡!尊王攘夷志士から一転、幕臣となった渋沢栄一と新撰組の意外な縁 : Japaaan

    2021年の大河ドラマでおなじみの「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」。 実は、幕末の京都の志士達を震え上がらせた「新撰組」と縁があったのです。ちょっと意外ですよね。今回は渋沢栄一と新撰組の意外な縁について紹介します。 渋沢栄一が新撰組と関わった背景 渋沢栄一は農民の生まれで、子どもの頃から学問を良く学び、商業の才能もありました。25歳の時、交流のあった一橋家の家臣である平岡円四郎に推挙され、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の家臣となり武士になります。 その5年後には、一橋慶喜が将軍となり、家臣の渋沢栄一も幕臣となります。新撰組と関わったのは、幕臣となって陸軍奉行支配調役という役目についていた時です。その時渋沢は、拠点を京都に移していて、これが新撰組と関わるきっかけになりました。 渋沢栄一が武士になり幕臣となって大出世を遂げ、新撰組と関わることになるなんて……、運命とはわからないものですね。 なぜ渋沢

    幕末の京都での奇跡!尊王攘夷志士から一転、幕臣となった渋沢栄一と新撰組の意外な縁 : Japaaan
    shinchi
    shinchi 2021/05/06
  • 暗殺が横行した幕末「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【後編】 : Japaaan

    幕末は暗殺が横行した時代。特に有名だったのが、「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれる四人の暗殺者でした。前半では、四大人斬りのうちの二人、「田中新兵衛」と「河上彦斎」の末路について紹介し… 後編では残りの二人、「人斬り以蔵」こと岡田以蔵と薩摩の西郷の右腕「人斬り半次郎」こと中村半次郎について紹介します。 幕末の四大人斬り 3 岡田以蔵(おかだいぞう) 土佐藩郷士の岡田以蔵は、武市半平太(瑞山)に師事し、剣術を学びました。やがて、その武市が作った土佐勤皇党に加入し、それが人斬りの始まりでした。 武市らとともに上洛し、土佐勤皇党の志士として武市の命を受け、井上佐市郎(土佐藩下目付)を同士とともに暗殺。その後は武市の指示の下暗殺を繰り返していきます。すべては土佐勤皇党のため、武市の恩に報いるためでした。単独で行うことはなく、集団による暗殺でした。田中新兵衛らとともに行うこともありました。 まず安政

    暗殺が横行した幕末「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【後編】 : Japaaan
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    shinchi 2021/04/26
  • 「本能寺の変」後、豊臣秀吉が驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”ができた理由 : Japaaan

    織田信長の死を知った豊臣秀吉が3万もの兵を引き連れながら1日50キロという驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”。 この速すぎる反応に、後世の人々は「秀吉隊だけが先に行軍し、他はあとで秀吉を追ってやってきた」とか「秀吉は信長の死を事前に知っていた」などの理由を考えました。 しかし、記録によると秀吉はこれよりさらに速く行軍していた記録があります。それは、賤ケ岳の戦いでのこと。相手は、秀吉のライバル・柴田勝家でした。このとき秀吉は1万5000の兵を引き連れながら、約52キロの道のりを僅か5時間ほどで駆け抜けたのでした。 時速に計算すると、約10キロ。その余りの速さに、秀吉の登場を予想していなかった柴田軍はすっかり油断をし、錯乱状態となって敗走したのでした。 今と違って、自動車も鉄道もなかったあの時代、秀吉はなぜこれほどまでのスピード行軍を実現できたのでしょうか。 それは、行軍に必要不

    「本能寺の変」後、豊臣秀吉が驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”ができた理由 : Japaaan
    shinchi
    shinchi 2021/02/27
  • 古くから武人たちに愛されてきた日本の伝統色「勝色」とはどのような色なのか? : Japaaan

    報道によると令和3年(2021年)2月、カシオ計算機の耐衝撃ウォッチ「G-SHOCK」に「勝色(かちいろ)」を採用した3モデルが登場するそうです。 日の伝統色として古くから武人たちに愛されてきた「勝色」ですが、果たしてどのような色なのでしょうか。今回はそれを紹介したいと思います。 時代を越えて武人たちに愛された勝色 勝色とは深い紺色を指し、平安時代の褐衣(かちえ)に由来すると言われています。 この褐衣は貴族に仕えた下級武官たちの装束(狩衣の一種)で、藍や紺で染め上げた褐(ゴワゴワした粗末な麻布)を、よく搗つ(かつ。叩く)ことで光沢を出しました。 光沢を出すことで、粗末な生地にせめてもの高級感を与えたかったのか、少しでも繊維を柔らかくして着心地をよくしたかったのか、それとも生地の織目を詰めることで防寒効果を高めたかったのかも知れません。 いずれにしても、搗ちて染め上げたことから「搗色(かち

    古くから武人たちに愛されてきた日本の伝統色「勝色」とはどのような色なのか? : Japaaan
    shinchi
    shinchi 2021/02/27
  • 古代日本の大決戦!なぜ白村江が「はくすきのえ」と呼ばれていたのか、諸説を紹介 : Japaaan

    最近、こんなネタを耳にしました。 「白村江(※)、を何と読むかで年代が分かる」 昭和生まれの筆者は、白村江は「はくすきのえ」と習いましたが、最近では「はくそんこう」と読ませているとのこと。 (※)白村江の戦い……天智天皇2年(663年)8月、日が朝鮮半島の百済(くだら)国を再興するべく、同じ朝鮮半島の新羅(しらぎ)国&中国大陸の唐(とう)王朝を相手どり、敗れてしまった戦い。 確かに「はく(音読み)+すき(訓読み?)+の・え(訓読み)」よりも「はく+そん+こう(すべて音読み)」の方が読みに一貫性があって学校現場では教えやすいのでしょうが、こういう独特な言葉の味わいが失われてしまうのは少し寂しく思います。 ところで、「はく」と「のえ」は分かりますが、村を「すき」という読み方はあるのでしょうか。漢字辞典には見当たらないようですが……。 2ページ目 「すき」は日語?それとも漢語?

    古代日本の大決戦!なぜ白村江が「はくすきのえ」と呼ばれていたのか、諸説を紹介 : Japaaan
    shinchi
    shinchi 2021/02/22
  • 溺愛した愛息の死で人格豹変。戦国大名「長曾我部元親」の栄華と没落【前編】 : Japaaan

    戦国期。四国の戦国大名「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」は名君として名を馳せたが、嫡男である信親を戦で失うと生来の器量は失われ人格が豹変したという。 今回は、西国を代表する戦国大名である長曾我部元親の栄華と没落をご紹介する。 出生から初陣まで 1539年。先代・国親の嫡男として土佐国(現在の高知県)に生まれる。1560年に父・国親の死により家督を相続。初陣も同年であり、当時としては遅い初戦であった。 幼少期の元親は長身だが色白で大人しい気質であり、国親や周囲の家臣たちからの評価は今一つであったという。初陣が当時の平均より遅れたのも、父親や周囲の意図があった可能性が伺える。 決して評価が高いとはいえない元親であったが、初陣となった長浜の戦いでは敵兵を討ち取るなど、別人のような活躍を見せ周囲を驚かせたという。 土佐統一へ 元親が家督を継承した1560年頃の長曾我部家は、土佐国の三分の一程

    溺愛した愛息の死で人格豹変。戦国大名「長曾我部元親」の栄華と没落【前編】 : Japaaan
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    shinchi 2021/02/12
  • 溺愛した愛息の死で人格豹変。戦国大名「長曾我部元親」の栄華と没落【後編】 : Japaaan

    戦国期。四国の戦国大名「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」は名君として名を馳せたが、嫡男である信親を戦で失うと生来の器量は失われ人格が豹変したという。[caption id="attach… 四国平定 信長の死により勢力を盛り返した元親は、四国平定の過程で羽柴秀吉と対立。度重なる秀吉軍の侵攻を退けた元親は、1584年に伊予国の河野氏を降伏させると翌年までに有力豪族を服属させることに成功。 四国全土を掌握し、長曾我部氏の全盛期を築き上げる。(※長曾我部氏の四国統一には異説も存在する) 嫡男・長曾我部信親との関係

    溺愛した愛息の死で人格豹変。戦国大名「長曾我部元親」の栄華と没落【後編】 : Japaaan
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    shinchi 2021/02/12
  • 天下に号令する未来を予言?織田信長が贈り物の鷹を辞退した理由とは? : Japaaan

    訓練された鷹(タカ)を放って獣を捕らえさせる鷹狩り。その起源は紀元前3,000年から同2,000年ごろと言われ、日でも古墳時代(約3~7世紀)の埴輪に鷹を手にのせたものが伝わっています。 単に糧を調達するのみならず、飛び回る鷹を追い回しての体力錬成や、広く移動することで地形を把握し、軍略を練ることができるなど、中世の武士たちに好適なトレーニングとして、鷹狩りは広く愛好されました。 戦国時代の革命児として有名な織田信長(おだ のぶなが)もその例に洩れず、鷹狩りの実利性はもとより、鷹そのものの威厳に富んだ優美さを愛し、コレクションしていたそうです。 今回はそんな信長の若き日の、鷹にまつわるエピソードを紹介したいと思います。 関東で求めた二連の角鷹を…… 今は昔、丹波国穴太城(現:京都府亀岡市)に赤沢加賀守義政(あかざわ かがのかみ よしまさ)という鷹好きの城主がおり、ある時はるばる関東へ下

    天下に号令する未来を予言?織田信長が贈り物の鷹を辞退した理由とは? : Japaaan
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    shinchi 2021/01/06
  • 能力はあるはずなのに…ネガティブな性格ゆえに能力を活かしきれなかった戦国武将・毛利隆元 : Japaaan

    戦国時代における毛利家で名が上がるのが毛利元就や毛利輝元、毛利両川(吉川元春、小早川隆景)かと思われます。 しかし、元就の嫡男だった毛利隆元(もうり-たかもと)のことを忘れてはいけません。 隆元は先に上げた人物たちよりは知名度は低いですが、隆元無しでは毛利家が結束できなかったと言っても過言ではないくらい裏で毛利家を支えていました。 それくらい毛利家に多大な影響を与えたのですが、実は隆元は非常にネガティブでマイナス思考の強い性格の持ち主でした。 今回は毛利家を支えた大黒柱である隆元の性格を示すエピソードをご紹介したいと思います。 周りとの比較でネガティブな性格に… 隆元は大永3年(1523)に生まれます。そして天文6年(1537)には、大内義隆(おおうち-よしたか)のもとに3年間人質として身を寄せました。 大内家の下では武士として扱われ、尚且つ西の京都と呼ばれた大内家の領土内で公家風な文化

    能力はあるはずなのに…ネガティブな性格ゆえに能力を活かしきれなかった戦国武将・毛利隆元 : Japaaan
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    shinchi 2021/01/05
  • 明智光秀、豊臣秀吉などを見出した人材登用の天才・織田信長の能力主義とは?【前編】 : Japaaan

    最強の戦国大名として安土桃山時代を創出した織田信長。中規模程度の領地を大幅に拡大し、天下布武に邁進した原動力はどこにあったのでしょうか? その答えを、能力主義に基づいた人材登用の面から探ってみました。 父から引き継いだ領地を20倍に拡大できた理由 20万石の領地を800万石に拡大 1534(天文3)年、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれた織田信長。 その17年後、信秀が病没。信長は嫡男としてその遺領を引き継ぐことになります。その石高は、尾張半国の約20万石といわれています。 ご存知の通り、信長は1582(天正10)年、天下統一を目の前にして、明智光秀の奇襲を受け能寺に斃れます。 驚くべきは、その時の所領で、直轄地と重臣たちが支配する石高を合わせると800万石に及んだといわれています。 領地拡大は信長を支えた家臣団の功績 単純に計算しますと、30年で元の所領を40倍に増やしたこと

    明智光秀、豊臣秀吉などを見出した人材登用の天才・織田信長の能力主義とは?【前編】 : Japaaan
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    shinchi 2020/12/18
  • 戦国時代、武将たちが名乗った「弾正」は京都洛中の風紀委員だった? : Japaaan

    戦国武将が好きな方なら、一度ならず見聞きしたことがあろう「弾正(だんじょう)」という言葉。 信長の父・織田弾正信秀(おだ のぶひで)、信玄の家臣・高坂弾正昌信(こうさか まさのぶ)、足利将軍を暗殺した松永弾正久秀(まつなが ひさひで)……。 さて、この弾正とは官職で、何だかカッコいい響きですが、いったいどんな職務だったの?と訊かれると、即答出来る方は少なそうです。 京都洛中の「風紀委員」的存在だった弾正台 弾正とは律令制度において制定された弾正台(~だい)の略称で、弾の文字は正と同じく「ただす」意味があり、京都洛中の風俗を取り締まる役職でした。現代で言えば、学校の風紀委員みたいなものでしょうか。 具体的には左大臣以下の非違を摘発し、天皇陛下に奏聞(そうもん。申し上げること)する権限を持っていましたが、検断権(けんだん。警察権&裁判権)は持っていませんでした。 そのため、いざ非違を見つけても

    戦国時代、武将たちが名乗った「弾正」は京都洛中の風紀委員だった? : Japaaan
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    shinchi 2020/12/15
  • 独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【後編】 : Japaaan

    平安時代末期の武家政権誕生によって、日では武士中心の時代が幕を開けた。その中で、武士や貴族の支配に抗い独立した権威と武力を持った存在が「延暦寺(えんりゃくじ)」だ。今回は、時の権力者に屈服せ… 度重なる強訴 延暦寺は神罰や武力をかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を認めさせる行動「強訴(ごうそ)」を繰り返した。強訴は10世紀後半頃から顕著になり、12世紀の白河上皇は自身の思い通りにならない対象として延暦寺の僧兵を挙げている。 代表的な強訴 【建久2年の強訴】 1191年。延暦寺に千僧供料を貢納する義務を追っていた近江国守護・佐々木定綱は、水害による不作によって貢納が滞る。怒った延暦寺は定綱邸を襲撃し乱暴狼藉を働いた。次男の定重は迎え撃つが神鏡を破損してしまう。 神鏡の破壊は極刑に値する重罪であり、事件は朝廷・幕府を巻き込む大事に発展。延暦寺は定綱の死罪を求めて朝廷及び源頼朝に強訴し、頼朝

    独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【後編】 : Japaaan
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    shinchi 2020/12/14
  • 豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【前篇】 : Japaaan

    今川・織田・豊臣に臣従するという試練を乗り越えて、江戸幕府を開府した徳川家康。 しかし、そこには先の天下人・豊臣家の脅威がありました。家康は、豊臣家を滅ぼすとともに、秀吉の墓と神社を破壊し、京都からその痕跡を消し去ります。 何が、家康をそんな行動に駆り立てたのでしょうか。 「豊国乃大明神」という神になった豊臣秀吉 1598(慶長3)年8月18日、天下人・豊臣秀吉は、伏見城で63歳の生涯を閉じました。 その後、秀吉の遺骸は、京都の方広寺東方にある阿弥陀ヶ嶽山頂に葬られ、中腹には秀吉を祀る豊国神社が建立されたのです。 秀吉は朝廷から「豊国乃大明神」の神号が与えられ、神となりました。

    豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【前篇】 : Japaaan
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    shinchi 2020/11/27
  • ポスト織田信長を巡って大混乱。生き残りを掛けた織田家重臣たちの運命【前編】 : Japaaan

    1582年。天下統一に最も近い存在とされていた織田信長は能寺で横死した。この後、信長の元で急成長を遂げていた一派は、主を失ったことで瓦解してゆくことになる。 今回は、信長亡き後の織田家重臣たちの混乱とその後についてご紹介する。 清洲会議 1582年。信長の死により発生した後継問題や領地問題について話し合う場が尾張国の清洲城で行われた(清洲会議)。出席者は織田家重臣の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人であり、決定の委任役は織田信雄(信長の次男)・織田信孝(信長の三男)と徳川家康の3人が努めた。 信長の遺児である信雄と信孝は互いに後継の地位を主張したが、能寺の変の功績によって存在感を増していた秀吉に推挙された「三法師(信長の長男・信忠の子)」の後継擁立が決まった。

    ポスト織田信長を巡って大混乱。生き残りを掛けた織田家重臣たちの運命【前編】 : Japaaan
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    shinchi 2020/11/25
  • 天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当か?現代まで残る風説を紹介【後編】 : Japaaan

    1589年、秀吉と側室「淀殿(よど)」の間に長男(秀吉の子としては次男)として誕生する。この時秀吉は53歳であり、石松丸が実子であると仮定した場合、15年前後の時を経て誕生した次男という事になる。 秀吉は鶴松を溺愛し後継者として期待したとされるが、鶴松は1591年頃から病に侵され同年のうちに死去。2歳という早世であった。 ④豊臣秀頼 秀吉の実子とされる人物の中で、もっとも有名な存在が三男の「豊臣秀頼(ひでより)」だろう。母親は鶴松と同じく側室の「淀殿」。1593年に大阪城で生まれた。秀吉57歳時の子供である。人生50年といわれたこの時代にあって、他に類をみない高齢での実子誕生であった。 秀吉の死後、跡取りとして豊臣政権を任されるが、関ヶ原の戦いを経て台頭した「徳川家康」の策略によって一大名に転落。徳川家との対立を深め、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。秀頼自身も自害して果てた。享年23

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    shinchi 2020/11/17
  • 本能寺の変と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【前編】 : Japaaan

    1582年に起きた「能寺の変」とその後の混乱は、日歴史を大きく変えました。 天下統一に向けて快進撃を続ける織田信長が明智光秀に討たれ、その光秀も羽柴秀吉によって敗死し、最終的に秀吉が日の支配者となったことは周知の通りです。 そしてその過程には数えきれないほど多くの人たちが巻き込まれ、ある者は立身を果たし、ある者は没落を余儀なくされ、ある者は命を落とすことになりました。 今回ご紹介する細川藤孝(ほそかわふじたか)もその一人。彼は一連の流れの中で 光秀とともに滅びても不思議ではない立場にありながら、戦場に立つことなく秀吉から功を賞されて豊臣政権において重用される という離れ業をやってのけています。 いかにして成し遂げたのか、なぜそれが可能だったかを、詳しく見ていきたいと思います。 能寺の変までの細川藤孝 細川藤孝は1534年生まれ。織田信長とは同い年です。 隠居後の名である「細川幽斎

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    shinchi 2020/11/09
  • 人質約700名の命と引き換えに逃亡。信長を裏切った戦国大名「荒木村重」【前編】 : Japaaan

    下克上や謀反が相次いだ戦国時代。巻き込まれた一族や関係者は見せしめに命を奪われることも珍しくなかった。戦国武将・織田信長に仕えた大名「荒木村重(あらきむらしげ)」も主君を裏切った男の1人だ。村重の裏切りによって700名近い関係者が処刑されたという。 今回は、悲劇的な結末を迎えた荒木村重の謀反事件についてご紹介する。 荒木村重とは 1535年に摂津国(現在の大阪府北部)に生まれる。摂津池田氏に仕えたが、1571年に主君に反旗を翻す形で起こした「白井河原の戦い」をきっかけに織田信長の家臣となった。 信長と室町幕府15代将軍「足利義昭」の対立中も信長方として活躍した。摂津国内の有力な国人を滅ぼした結果、摂津一国を任されるに至る。 村重は伊丹氏から奪った伊丹城を「有岡城」と改称。摂津に有岡城を中心とした新たな支配体制の基盤を築き上げ、信長から摂津守護に任じられる。 突然の裏切り 1578年。播磨国

    人質約700名の命と引き換えに逃亡。信長を裏切った戦国大名「荒木村重」【前編】 : Japaaan
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    shinchi 2020/11/06
  • 打倒!織田信長に西国を放浪。室町幕府最後の将軍「足利義昭」の執念【後編】 : Japaaan

    尾張国の大名「織田信長」を伴って上洛を果たした「足利義昭」は室町幕府15代将軍に就任した。お互いの利害の一致から協力関係にあった義昭と信長だったが、時の経過と共に少しずつ関係性に亀裂が見えはじめる。… 義昭の挙兵 三方ヶ原での大敗によって勢いづいた反信長勢力に加担する形で挙兵した義昭。 1573年。形勢不利と見た信長は、義昭に対して和睦の要請を申し出るが義昭はこれを拒否した。信長は義昭追討の兵を挙げ京都に侵攻するが、天皇の勅命で和睦している。 この時期の信長は四方を敵に囲まれて抜き差しならない状況であり(第二次信長包囲網)、反信長勢力にとっては信長を討つ絶好の機会であった。 槙島城の戦い しかし、信長にとって脅威である甲斐国の「武田信玄」が1573年の4月に死亡すると潮目が変わり始める。 義昭は約3ヶ月後に和睦を反古にして再挙兵し京都の槙島城に籠る。しかし、幕臣の寝返りや近臣の降伏が相次ぎ

    打倒!織田信長に西国を放浪。室町幕府最後の将軍「足利義昭」の執念【後編】 : Japaaan
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    shinchi 2020/11/03