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空気とコミュニケーションに関するsizukanayoruのブックマーク (7)

  • http://www.chantam.link/entry/2016/09/10/215453

    http://www.chantam.link/entry/2016/09/10/215453
  • 場の空気 - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2020年5月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2020年5月) 出典検索?: "場の空気" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 場の空気(ばのくうき)とは、日における、その場の様子や社会的雰囲気を表す言葉[1]。とくにコミュニケーションの場において、対人関係や社会集団の状況における情緒的関係や力関係、利害関係など言語では明示的に表現されていない(もしくは表現が忌避されている)関係性の諸要素のことなどを示す日語の慣用句である。近年の日社会においては、いわゆる「KY語」と称する俗語が流行語となって以来、様々な意味を込

  • 空気読みで成り立つ国では無用の論理弁証能力 - 狐の王国

    ときおり、絶望的な気分になることがある。この世の人間というのは、実はそれほど頭が良くないのではないかと思うときだ。 実生活でも使えるディベートテクニック - タケルンバ卿日記 こんな記事が話題にあがっていた。別に俺はディベートやってたわけでもないけど、ここにあるような話し方、考え方は普通のこととして受け入れているものだ。 いや、別にタケルンバさんの記事が悪いと言ってるわけじゃない。無自覚にやってることを自覚的にやるためにも、こういう記事は非常に有用だと思う。 ただ、これを見てまた少し、俺は絶望的な気分になった。 「中華はイヤだ」と主張し、昨晩の料理写真を出したとしても、それだけじゃ何のことかわかりません。これまた「で?」という話。何でそういう主張につながるのか。何故そういう写真が出てきたのか。周りは意味がわかりません。主張と証明の間がリンクしないのです。唐突過ぎて意味が通じないのです。 …

    空気読みで成り立つ国では無用の論理弁証能力 - 狐の王国
  • 空気を読むという事

    ■「空気読め」 http://anond.hatelabo.jp/20090401235551 ※「いじめの話」と「空気読め」の話とは、少しの間だけ分けて考えて以下を読んでね。 ※この文章は「空気読む事」を強要している訳ではありません、むしろそうしなくても良いヒントも書かれています。 空気を読むと言うと「他人と合わせる」事だと思う人が多いが、それは断じて違う。 空気を読むとは「相手を気遣う」という事。 相手を気遣うには「相手の事をよく知る」必要がある。 相手の事をよく知るには「相手の事を理解してあげる」必要がある。 空気を読めない人は、たいてい「相手に関心がない」ので「相手を理解していない」事が多い。 これが図星であれば、まずそこから直そう。 相手を知るにはどうするか?まずはひたすら相手の話を聞くしかない。 話を聞くと言っても、いきなり一人と向かい合うんじゃなくて、最初は複数人で喋っている

    空気を読むという事
  • 「空気読め」という言葉の『空気』は誰によって作られたのか - 空中の杜

    こんな話題が。 ■暇人\(^o^)/速報 「空 気 読 め」 が 日  を ダ メ に し た 件 そういえば今では使うと「どんだけ〜」レベルに恥ずかしい「KY」って言葉もありましたね。ちなみに>>37のネタが村上龍の『五分後の世界』と気づくのにちょっとかかりました。 さて、上記エントリーではそれについていろいろな事が書かれていますが、実は私もこれを痛切に感じたことがありました。そしてそれは、このブログの名前にも関係しています。まあ個人的なことでアレですが、ちょっと書きます。 以前、ブログの名前がついたのは「空気を読まないブログ」+「中杜カズサmemo」と書きましたが、実はその裏にはもうひとつ、影の理由がありました。ブログを始めた時はフリーになったばかりの頃でした。それまではいくつかの会社にいたことがありますが、そのうちのひとつの会社で、こんなことがありました。仕事でのとある会議の最中、

    「空気読め」という言葉の『空気』は誰によって作られたのか - 空中の杜
  • 議論について - 狂童日報

    なぜ日人は議論ができないのか ・・・・・・・・・・・・ 以上のような理由で、議論ではなく事前の打ち合わせで事を穏便に済ませようという気分になるのだと思われる。大きく分けると「論理が優先されず、気持ちが大切である」という点と「共感のなさ」だ。共感という言葉は二つに分離している。一つは男性的でリーダーが相手を慮らないという文化的指向と、集団主義で相手の利益を想像しながら事を進めるという傾向だ。だから相手を考慮しているのに共感していないという一見複雑な状況が見られる。 日人が議論ができない、というのはそれこそ日人論の定番中の定番なのであるが、私は世間が「議論」と読んでいるものには二つのタイプがあるのかなと思った。 (1)文字通りの「論戦」であり、意見が異なる相手を「論破」あるいは「説得」することを目標にするものである。議論における勝ち負けがはっきりしており、それは実証性と論理的な整合性とい

    議論について - 狂童日報
  • 恐怖のシンクロニシティ - 内田樹の研究室

    鈴木晶先生が年末にたいへん興味深いことを書かれていた。 ゲームとルールをめぐる考察である。 http://www.shosbar.com/ 少し長いけれど、引用させていただくことにする。ある小説に出てくる「I Pass the Scissors」(はさみを渡す)というゲームの話である。 ハサミを使う。数人が輪になってすわり、ハサミを次々に隣の人にわたす、というだけのゲームである。ハサミを受け取った人は、ハサミを開いて、あるいは閉じて、次の人に渡す。そのときに「私はハサミを開いて渡す(これを「クロス」と呼ぶ。ハサミを開くと、十字架の形になるからだ)」あるいは「閉じて渡す」と宣言する。問題は、その「開いて」と「閉じて」は、ハサミが開いているか閉じているかとは関係がないということだ。初心者はルールを知らないから、ハサミを開いて隣りに渡し、「私はハサミを開いて渡す」と宣言し、まわりから「まちがい!

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