歴史に関するt-hirosakaのブックマーク (353)

  • haiku(2012-01-26)から転載 - たたるこころ

    t-hirosaka.hatenablog.com もし、西門豹が「河伯娶婦なんて意味ないからやめなされ」と言ったところで、そうはならなかったと思う。それだけ弊害が出ていながらやめられないのは、人々がその儀式になにがしかの意味を見出している(=信仰がある)からだと思う。それは例えば、生け贄を捧げないと川が氾濫するとか、そういうこと。西門豹がしたのは、人々のそういう信仰を不合理として否定しないで、信仰の枠組みの中で、川が氾濫するんじゃないかという不安を人々に引き起こさずに、儀式を継続しないでもよい状況を作り出した、ということなんじゃないか。彼が私腹を肥やす関係者を次々と河に投げ込んだのは、皮肉とかじゃなくて、「生け贄を捧げるからには、当然に河の中に河の神がいて、生け贄はそこに行っているはずだ」という、人々の信仰に調和的な考えにもとづいている(それが同時に関係者の粛正にもなっている)。これ以降

    haiku(2012-01-26)から転載 - たたるこころ
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2023/08/21
    言及されました。
  • 孔丘先生の思想と肉体 - てぃーえすのメモ帳

    http://d.hatena.ne.jp/T_S/20130210/1360426980 以前、孔子こと孔丘先生は身長2メートルを超えて背面が異様に隆起しているような人物であったと紹介した。 子曰、巧言令色鮮矣仁。 (『論語』学而) 思うに、そんな見た目だけでも危険な感じでいっぱいな孔丘先生だから、多くの言葉を語らずとも、その危険な見た目だけで相手を威圧して屈服させることが出来たのではなかろうか。 子不語怪力亂神。 (『論語』述而) また、そんな近距離パワー型の孔丘先生なら、どんな怪異やどんな超常能力も怖くないだろう。鋼の肉体で大抵のモノから身を守ることが出来るに違いないから。 つまり、孔丘先生というのはとんでもない肉体の悪魔だからこそ、多言よりも中身重視とか怪異を意に介さないとかいったことを言えたのではないだろうか。

    孔丘先生の思想と肉体 - てぃーえすのメモ帳
  • 孔丘先生と弟子の子路 - てぃーえすのメモ帳

    http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171004/1507043114の記事の後に考えてみたんだけど、孔子こと孔丘先生が子路のようなあまり頭脳労働が得意そうじゃないタイプ(婉曲)を違うタイプの顔淵やら子貢やらと同等かそれ以上に寵愛したのって、自分が力こそパワーってタイプだったから同じタイプの人物に親近感を覚えたからなのかなあ。 それと、物言わずとも見た目と筋肉で相手を圧倒し屈服させることことを至上とする孔丘先生のスタイルを完全に踏襲できるのは、子路のように相手にあからさまに物理的な危険を感じさせるタイプだけだった、みたいなこともあったかもしれない。

    孔丘先生と弟子の子路 - てぃーえすのメモ帳
  • 始皇帝暗殺成功 - てぃーえすのメモ帳

    傳書又言、燕太子丹使刺客荊軻刺秦王、不得、誅死。後高漸麗復以撃筑見秦王、秦王説之。知燕太子之客、乃冒其眼、使之撃筑。漸麗乃置鉛於筑中以為重、當撃筑、秦王膝進、不能自禁、漸麗以筑撃秦王顙。秦王病傷、三月而死。 夫言高漸麗以筑撃秦王、實也。言中秦王病傷三月而死、虚也。 (『論衡』書虚篇) 『論衡』によると、当時の伝説ではあの荊軻が始皇帝(秦王)の暗殺に失敗した後、友人高漸離も暗殺を企て、始皇帝はその時の傷がもとで三か月後に死んだ、という話があったらしい。 秦始皇召見、人有識者、乃曰「高漸離也。」秦皇帝惜其善撃筑、重赦之、乃矐其目。使撃筑、未嘗不稱善。稍益近之、高漸離乃以鉛置筑中、復進得近、舉筑朴秦皇帝、不中。於是遂誅高漸離、終身不復近諸侯之人。 (『史記』巻八十六、刺客列伝、荊軻) 『論衡』で王充自身が指摘しているが、高漸離の暗殺計画も失敗したというのが『史記』に記される顛末なので、『論衡』が

    始皇帝暗殺成功 - てぃーえすのメモ帳
  • 『漢書』王莽伝を読んでみよう:下のまとめ - てぃーえすのメモ帳

    「『漢書』王莽伝を読んでみよう:下」を読んでみよう。 天鳳四年(紀元17年) 王莽封建制度の真実 その1:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170430/1493478142 奴婢に課税 その2:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170501/1493564546 呂母の乱 その3:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170502/1493650888 天鳳五年(紀元18年) 政権批判と密告奨励 その4:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170503/1493737518 王莽、孫も自殺 その5:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170504/1493824031 赤眉登場 その6:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170505/1493910594 天鳳六年(

    『漢書』王莽伝を読んでみよう:下のまとめ - てぃーえすのメモ帳
  • 鰐口の方が古い? - Living, Loving, Thinking, Again

    広坂さん曰く、 今年も高尾山へ。 数年前から境内にごてごてしたデコレーション(とってつけたような新造の天狗像など)が目立つようになって私自身は興ざめしている。 これもまた数年前から目につくようになったのが、寺院の堂で柏手を打って参拝する人たち。中年に多い。 高尾山薬王院はもとは神仏習合の修験の寺だが、仏教優位で飯綱大権現を祀ってきたわけだし、明治の神仏分離令の時は真言宗であることを選んだ仏教寺院である。 堂の前では線香も焚いているし、僧侶はお経を読んでいる。 柏手を打っている人たちを観察していると、律義に二礼二拍一礼をしている人が多い。神社拝礼のマナーとして宣伝されているやり方だ。マナーを気にするなら、ここでそれはやめてほしいのだが。 http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20170102/1483296113 寺というか仏前で柏手を打つ人が増えているのか。

    鰐口の方が古い? - Living, Loving, Thinking, Again
  • 僧、信長を「黒鼠」と批判…豊橋・寺の古文書に : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

  • 『神道の成立』 - Arisanのノート

    神道の成立 (1979年) (平凡社選書〈64〉) 作者: 高取正男出版社/メーカー: 平凡社発売日: 1979/04メディア: ? クリック: 3回この商品を含むブログ (1件) を見る名著という評判を聞いて読んでみたのだが、なるほど非常に面白いだった。 その独特の文体は読んでいてまだるっこしくはあるのだが、歴史的な文献や柳田国男の論文などの、綿密にして斬新な読解が含まれていて、多くのことを考えさせられる。 書の重要な論点の一つは、呪術(シャーマニズム)的な段階から区別される「宗教としての」神道の成立を、かつて東アジアを席巻した仏教の拡大という現象に対する、一種の(日という地域なりの)反作用として捉えた、国際的でダイナミックな視点である。 それは、中国において同様の反作用として構成された儒教や道教(仏教の到来以前にはシャーマニズム的なものだったことは、それらも同じだろう)の枠組み、

    『神道の成立』 - Arisanのノート
  • 李広利と李陵 - てぃーえすのメモ帳

    天漢二年、貳師將三萬騎出酒泉、撃右賢王於天山。召(李)陵、欲使為貳師將輜重。陵召見武臺、叩頭自請曰「臣所將屯邊者、皆荊楚勇士奇材劍客也、力扼虎、射命中、願得自當一隊、到蘭干山南以分單于兵、毋令專郷貳師軍。」 (『漢書』巻五十四、李陵伝) かの李陵は貳師将軍李広利の輜重隊として従軍するところを武帝に対して進言し、自ら歩兵を以て匈奴に当たると申し出た。 これが結局は李陵が匈奴に降る原因となったのは有名なことだろう。 無謀にも思える進言を李陵がした裏には、武帝の寵臣(寵姫の兄)である李広利の下に付くのを良しとしなかったという点があったのかもしれないが、もしかしたらもう一つ裏があったかもしれない。 (李)敢有女為太子中人、愛幸。敢男禹有寵於太子、然好利、亦有勇。 (『漢書』巻五十四、李広伝) 李陵の祖父に当たる李広の子の一人が李敢であるが、その娘は武帝の皇太子に寵愛され、その兄弟である李禹も皇太子

    李広利と李陵 - てぃーえすのメモ帳
  • その後の司馬遷 - てぃーえすのメモ帳

    (司馬)遷既被刑之後、為中書令、尊寵任職。 (『漢書』巻六十二、司馬遷伝) 司馬遷は手術後に「中書令」となり、武帝に気に入られ任を着実にこなしたと評された。 是時中書令石顯顓權、顯友人五鹿充宗為尚書令、與房同經、論議相非。 (『漢書』巻七十五、京房伝) その「中書令」は、宣帝・元帝の頃には石顕らの宦官が就任し、しばしば士人の官僚たちから非難の対象ともなってきていた。 (蕭)望之以為中書政、宜以賢明之選、自武帝游宴後庭、故用宦者、非國舊制、又違古不近刑人之義、白欲更置士人、繇是大與(史)高・(弘)恭・(石)顯忤。 (『漢書』巻七十八、蕭望之伝) 元帝の頃の蕭望之によれば、「中書」を宦官にやらせるようになったのは武帝以降というから、司馬遷は「中書令」が皇帝の側近中の側近となった初期の就任者ということらしい。 もちろん、司馬遷が何か悪事を働いたとか権力をほしいままにしたとかいったことではないが

    その後の司馬遷 - てぃーえすのメモ帳
  • 蕭何の後継ぎ - てぃーえすのメモ帳

    孝惠二年、(蕭)薨、諡曰文終侯。子祿嗣、薨、無子。高后乃封何夫人同為酇侯、小子延為筑陽侯。 (『漢書』巻三十九、蕭何伝) かの漢の蕭何が死ぬと、彼の領土は子が継いだが、二代目は子供がなく死んでしまった。 その時、当時の最高権力者呂后は蕭何のにその領土を引き継がせ、同時に蕭何の末子を侯とした。 どうやら、もともとの蕭何の領土を蕭何のと末子とで分割させたらしい。 来前漢の列侯の相続では兄弟相続を認めておらず、相続した嫡子に嫡子がいないとその場で取りつぶしというのが通例だったようだ。 蕭何の子の場合、蕭何ゆえに特別扱いして彼の領土、地位を守ろう、でも兄弟相続は認めないという原則にも抵触しないようにしよう、ということで折衷案が取られたのだろう。 末子の方は分家の初代であり侯名も変わっており、あくまでも家は兄弟には継がせない、ということなのではないだろうか*1。 この当時、女性自身が列侯にな

    蕭何の後継ぎ - てぃーえすのメモ帳
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2016/05/29
    「女性自身が列侯になる、という事例」
  • 劉邦の兄嫁 - てぃーえすのメモ帳

    羣臣從至、上議曰「丞相臣平・太尉臣勃・大將軍臣武・御史大夫臣蒼・宗正臣郢・朱虚侯臣章・東牟侯臣興居・典客臣揭再拜言大王足下。子弘等皆非孝惠皇帝子、不當奉宗廟。臣謹請陰安侯・頃王后・琅邪王・列侯・吏二千石議、大王高皇帝子、宜為嗣。願大王即天子位。」 【注】 蘇林曰「高帝兄伯、羹頡侯母、丘嫂也。」 (『漢書』巻四、文帝紀) 昨日の記事のシチュー事件首謀者であるところの劉信の母(劉邦の兄嫁)であるが、文帝が即位する際に存命であったという説がある。 上記の「陰安侯」というのが劉信の母だというのである。 諸説あるため確定できないが、もしそうであったとすると、劉信は列侯の地位を失っていたが母の方は列侯の地位にあったことになる。 興味深い話だ。

    劉邦の兄嫁 - てぃーえすのメモ帳
  • 「かわいそうなぞう」を殺した大達茂雄が戦後は文部大臣となって歴史教育を殺した - 読む・考える・書く

    「かわいそうなぞう」で描かれた猛獣虐殺を命じた東京都長官大達茂雄の経歴を見ると、いくつか重要なポイントが見つかる。 昭南特別市長(兼陸軍司政長官) 1942年3月—1943年7月 東京都長官 1943年7月—1944年7月 内務大臣(小磯内閣) 1944年7月—1945年4月 文部大臣(第5次吉田内閣) 1953年5月—1954年12月 昭南特別市とは、シンガポールのことである。アジア太平洋戦争の開戦直後、日軍はタイ・マレー国境付近に上陸し、そのまま南下してマレー半島全域を制圧、翌1942年2月15日にはイギリス軍の重要拠点だったシンガポールを陥落させた。 その直後から、シンガポールおよびマレー半島各地で中国系住民(華僑)に対する大虐殺が始まった[1]。今でも正確な被虐殺者数は不明だが、少なくともシンガポールだけで数千人以上が殺されたと推定されている。 シンガポールは人口の八割近くを華僑

    「かわいそうなぞう」を殺した大達茂雄が戦後は文部大臣となって歴史教育を殺した - 読む・考える・書く
  • 『反抗の原初形態』 - Arisanのノート

    反抗の原初形態―千年王国主義と社会運動 (1971年) (中公新書) 作者: E.J.ホブズボーム,青木保出版社/メーカー: 中央公論社発売日: 1971メディア: 新書 クリック: 4回この商品を含むブログ (1件) を見る 編者あとがき(青木保)によると、1950年代後半に欧米で、いわゆる千年王国主義的運動についての重要著作が相次いで発表されてブームのようになったそうだ。 このに収められているエリック・ホブズボームの諸論考も、その流れのなかで書かれたものらしい。 いまある社会が崩壊した後に、理想の王国(第三の帝国)が到来するという、古代からあるこの思想と運動が再考される場合、欧米ではやはりナチス・ドイツの存在が想起されたのではないかと思う。しかし、書が中公新書から出版された1971年当時の日で、そのような政治的危機意識が共有されていただろうか。 ホブズボームの議論と、書に併録さ

    『反抗の原初形態』 - Arisanのノート
  • 大行 - てぃーえすのメモ帳

    書奏上、而案尚書大行無遺詔。 【注】 正義、天子崩曰大行也。按、尚書之中、景帝崩時無遺詔賜魏其也。百官表云諸受尚書事也。 (『史記』巻一百七、魏其武安侯列伝) 受皇帝信璽・行璽大行前、就次發璽不封。 【注】 孟康曰「漢初有三璽、天子之璽自佩、行璽・信璽在符節臺。大行前、昭帝柩前也。」韋昭曰「大行、不反之辭也。」 (『漢書』巻六十八、霍光伝) 「大行」という言葉がある。 『漢書』注などによると、「行って戻ってこない」という意味で「大いに行く」と呼んでいるようだ。 この世から消え去ったことを指して「逝ってしまったわ」と言うようなものだろう。 具体的には、皇帝が死去して諡号が決まるまでの間、その(死んだ)皇帝を指して呼ぶ時の呼称である。 「大行皇帝」などと言うこともある。 「大行天皇」という形で、実は現代日で生き残っている言葉である。 2000年以上にわたって細々と(というか使われる機会がそう

    大行 - てぃーえすのメモ帳
  • 秦末の楚と趙の関係 - てぃーえすのメモ帳

    武臣到邯鄲、自立為趙王、陳餘為大將軍、張耳・召騷為左右丞相。 陳王怒、捕繫武臣等家室、欲誅之。柱國曰「秦未亡而誅趙王將相家屬、此生一秦也。不如因而立之。」陳王乃遣使者賀趙、而徙繫武臣等家屬宮中、而封耳子張敖為成都君、趣趙兵亟入關。 趙王將相相與謀曰「王王趙、非楚意也。楚已誅秦、必加兵於趙。計莫如毋西兵、使使北徇燕地以自廣也。趙南據大河、北有燕・代、楚雖勝秦、不敢制趙。若楚不勝秦、必重趙。趙乘秦之獘、可以得志於天下。」趙王以為然、因不西兵、而遣故上谷卒史韓廣將兵北徇燕地。 (『史記』巻四十八、陳渉世家) 秦末、自立して楚王を名乗った陳勝(陳渉)は、趙を傘下に収めるべく武臣という者を派遣したが、武臣らは趙で自立して王となった。 陳勝はもちろん怒ったが人質を殺すのは思いとどまり、その代わり楚のために秦を討つようにと急かすことにした。 趙は趙で、秦が滅べば今度は自分たちが滅ぼされる番だと思ってサボ

    秦末の楚と趙の関係 - てぃーえすのメモ帳
  • 始皇帝がらみの新史料らしい『趙正書』について - 枕流亭ブログ

    北京大学蔵西漢竹書(北大漢簡)のひとつ『趙正書』を訳してみました。ネットに落ちてたものをテキトーに直しただけなので、正確さは全く保証しません。 むかし秦王趙正が天下に出遊し、帰る途中に白人(柏人)にいたって病にかかった。〔趙正の〕病は重く、涙を流して長い溜息を漏らし、「天命は変えることができないのか。わたしはかつてこのような病にかかったことがなかったが、悲…〈不明〉…」と側近たちに言った。…〈不明〉…これに告げて、「わたしは自ら天命を視て、年五十歳で死ぬと〔占ったことがあった〕。わたしは去る年十四で〔秦王に〕即位し、三十七歳で〔皇帝に〕即位した。わたしはいま死ぬべき年に達していたが、その月日を知らなかった。そのため天下に出遊し、気を変化させて天命を変えようとしていたのだが、できなかったか。いま病は重く、死も近い。急いで日夜に行列を運び、白泉に到着するまでは、振り返ってはいけない。つつしんで

    始皇帝がらみの新史料らしい『趙正書』について - 枕流亭ブログ
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2016/02/01
    おおおっ!
  • あの頃、原爆より原発の方が怖かった(今も) - Living, Loving, Thinking, Again

    現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 (ちくま新書) 作者: 大田俊寛出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2013/07/10メディア: 新書この商品を含むブログ (14件) を見る 大田俊寛*1『現代オカルトの根源起源』の最初の部分に曰く、 オウムの教義が切迫した終末思想をその基調としていたことは、広く知られている。オウムが社会に現れた一九八〇年代、世界は、アメリカとソ連という二つの超大国が対峙する冷戦構造下にあった。結果として両国が直接的に戦火を交えることはなかったが、その「代理戦争」と呼びうるものが世界各地で勃発していた。また、来るべき格的な戦争に備え、膨大な量の核兵器が両陣営で生産・備蓄されていた。今となっては多分に忘却されているが、世界はいずれ「第三次世界大戦」に突入する可能性が高いのが、当時の人々の共通認識だったのである。(pp.10-11)国際的にも国内的にも、「一九八

  • 『中世社会の基層をさぐる』 - Arisanのノート

    中世社会の基層をさぐる 作者: 勝俣鎭夫出版社/メーカー: 山川出版社発売日: 2011/10/01メディア: 単行この商品を含むブログを見る 日中世史の泰斗である勝俣鎭夫の近著。 学ぶところ、きわめて大きなだ。 このを読んでわかることの一つは、信玄や信長などの戦国大名が勢力を誇った戦国末期が、権力による統治の仕組みが大きく変わった時代であるということだ。 たとえば、琵琶湖の南西岸にある滋賀県の堅田というところは、中世には堺や博多と同じ自治・自由都市として非常に栄えたところであった(七章「福寺文書」を読む)。ぼくは二年前の夏に、湖岸をブラブラ歩いていて偶然この町に迷い込んだことがあり、その落ちついた佇まいに深い印象を受けたのだが、そんな歴史があることは、このを読むまで知らなかった。 ところで、その繁栄をもたらした重要な理由の一つは、自分たちは琵琶湖の湖上支配権を持つという堅田の

    『中世社会の基層をさぐる』 - Arisanのノート
  • 公開シンポジウム「近代日本の偽史言説 その生成・機能・受容」(2015年11月7日・8日) - グローバルヒストリーのなかの近代歴史学

    11月7日(土)8日(日)に下記のシンポジウムが開催されます。ご関心のある方は足をお運びください。 立教大学日学研究所公開シンポジウム 近代日の偽史言説 その生成・機能・受容 日時:2015年11月7日(土)・8日(日) 場所:立教大学池袋キャンパス5号館1階第1・第2会議室(変更しました) 主催:立教大学日学研究所 共催:立教SFR「グローバルヒストリーのなかの近代歴史学」 過去の世界は歴史家によって記述される。アカデミックな訓練を受けた歴史家が記述し、歴史家集団から一定の承認を受けるがゆえに、歴史は多くの人がみとめる基準としての歴史たりうる。しかし、わたしたちが生きる世界で生み出される歴史は、そのような歴史家による歴史記述ばかりではない。偽史というジャンルも、そのひとつである。 「チンギスハンは源義経である」、「アトランティス大陸は実在する」、「ひらがなより古い日独自の文字が使

    公開シンポジウム「近代日本の偽史言説 その生成・機能・受容」(2015年11月7日・8日) - グローバルヒストリーのなかの近代歴史学