プラトンを中心とする哲学・応用倫理系の研究ノート、講義ノートなど
美術作品によく「無題」とタイトルがついているのはなぜか。 表現とタイトルの狭間-「無題」とは何であるのか -煩悩是道場を読んで思ったことをつらつらと(引用箇所は、すべて同記事から)。 「無題」は芸術の中二病から始まった? 絵画・彫刻に限らず「無題」である理由は概ね以下の通りだ。 1.作家が意図的に表現に題を付けなかった 2.作家は作品を番号で呼称し、題と呼べるものは付けていない 3.作家が「無題」という題を付けた 4.作家は何らかの題を付けたが、題が何であるのかがわからない 5.作家が作品を完成させる前に何らかの理由で制作を中止するなどしたので題が存在しない 美術作品の展示の場合、1 では作家自らが「無題」とつけている場合と区別するために、「(無題)」、あるいは「(タイトルなし)」としているのを見たことがある。美術館で一律にそうかどうかは知らない。 普通は、まず本人か、本人が故人の場合は、
誰かのために心理的リソースをどれだけ割いているか ● この記事を読んで考えたこと。 甘えるなと言われ続けて育つと人を頼る能力が育まれずに、代わりに自己解決能力だけが発達するけれど、世の中的には最初から最後まで全て自力でやり遂げる(そうせざるを得ない)人よりも、他人を頼って学びながら徐々に成長する人の方がウケが良い。甘えてるのに。 人生の大切な局面で誰の助けも得られず歪んだ人は最後まで誰にも相手にされないけれど、恩師に助けられたり、きっかけを与えてくれる人が現れて乗り越える話はみんな大好き。甘えてるのに。 素晴らしい人の甘えは綺麗な甘え 他人の好意や愛情を信じ、助けを請う人、またそれが許されている人というのは、自分も他人に対する手助けを惜しまない人であることが多い。 わたしの妹なんかがそうなのだが、夜中でも友達に泣きながら呼び出されたら、しょっちゅう飛んでいって24時間営業のファミレスで
ベレゾフスキーさんの「つくばノバホール」でのコンサートは3月9日です。・・・ホンモノのピアノを聴きたい方は、是非! ある方にご紹介頂いた「タイアップの歌謡史」(速水健朗著 洋泉社 新書y)は、音楽関係の本としては久しぶりに刺激的なものでした。 しかも、受ける「刺激」の質が、違いました。 それは、この本が「音楽のつくり」を扱ったものではないからです。(歌謡曲のつくりを丁寧にフォローしたものは小泉文夫氏の著作にあり、今も平凡社ライブラリーで手軽に読むことが出来ます。) だからといって、「タイアップの歌謡史」は音楽の<内容>を語っていない本、というのでもありません。 著者に従って大括りに言ってしまうと、放送媒体(ラジオ・テレビ)登場後の「歌謡曲」が、どんな伝達媒体・伝達手段を通じて<流通>したか(放送に限らない)を丁寧に追いかけたレポートであり、論考になっています。 お読みになれば「そうだったの
RSSリーダーがフツーの人に普及しなかった訳 - Core これはよくわかる。というか、私もRSSリーダーやソーシャルブックマークを回りに勧めて、誰も使わないので???となっている口だ。 そもそも、もう25年間もこういう業界にいるので、プログラマと「フツーの人」の常識の違いを思い知らされる経験については、相当なストックがある。 一番印象的だったのは、とあるネットワーク関連ソフトのサポートの人から聞いた話。ネットワークが関わるソフトは設定が難しくうまくつながらないことが多い。だから、サポートへの問合せも多くて、それなりに初心者の方への耐性もできている。 ところが、そのお客様のケースは状況が違った。まずコントロールパネルからネットワークの設定を開いて読みあげてもらうのだが、なぜかそれが表示されない。サポート担当者は、どうもドライバがインストールされてないようだと気がつき、「お客様はネットワーク
伊福部昭「管弦楽法」(音楽之友社。定価¥24,000+税)届く。 この書は、言わずと知れた作曲家必携のオーケストレイションのバイブル。私も高校生時代に手に取って以来、40年間ピアノの横にずっと置いてある文字通りの座右の書である。 今回の「完本」は、旧1968年版で上下巻からなる大著(A5版)だったものを、いくぶん大判(B5版)にし、さらに上下巻を合併させたもの。一昨年、同じく音楽之友社から発売されたベルリオーズの「管弦楽法」とサイズも同じなので、作曲学生は(なけなしの金をはたいてでも)2冊そろえて買うべし(+ +;)。 何しろあらゆる楽器の機能について網羅している点で(おそらく)世界一の「管弦楽法」の書物。ただし、どこかコンピュータの操作マニュアル本に似ているナ…と、今回改めて気付いた。すべての機能が120%書き記されているが、読みやすさ分かりやすさへの配慮はなく、知りたいことにたどり着く
昨日は仕事が早く終わる日だったので、ひさしぶりに荒川に散歩に行きました。夕方になると、さすがに風も冷たくなってきたので、そろそろ帰ろうと思って、来た道を戻ると、土手の向こうにきれいな夕日が見えました。 夕日というと自分は、あるひどく個人的な体験を思い出します。それは、たしか中学生のとき。学校の帰りに、空き地の向こうに見える夕日を見て、すごいきれいだなって思ったことです。たったそれだけのことです。たったそれだけなのですが、そのとき自分は、大人になっても、この感動を持ち続けられるのだろうか。そう思って、ものすごく不安な気分になりました。 思春期の微妙な感情とか、一言で言えばそういうことなのかもしれないけれど、それは自分の中でものすごく大きなことで、夕日を見るたびに、いつもそのことを思い返すのです。それをうまく言葉にすることはできないけれど、大人になって、手に入れたもの、失ったもの、いろいろ挙げ
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