ホッブズは『リヴァイアサン』という本の中で、国家(やその権力や社会秩序)がどこから生まれるかという謎にひとつの答えを出した。 それも「神様のような人間以上のものがうまく設計したのだ」というご都合主義ではないやり方でだ。 原子論が「自然は運動する原子の集まりだ」と考えるように、ホッブスは社会を人間のあつまりだと考えた。 そして人間の性質からはじめて、人間の集まりで何が起こるか、人間と人間が関わりあうことから何が生まれるかを考えた。 どんな人間にもあてはまる性質は、「死にたくない」という欲望と、「おれが、おれの方が」という欲望を持っていることだ。 「おれが、おれの方が」という欲望は、死ぬまで無くならない。 だから、このままだと、いろんなものを取り合って、人間は死ぬまで争い、どんどん死んでいくことになるだろう。 だが人間には「死にたくない」という欲もあり、そして多少はものがわかる能力もある。 こ
本館のエントリのためにルソーとか、ロックとか、ミルを読み直しているのだが、たまたま見かけたエントリにあった、『思想地図』で交わされたというルソー解釈などに少々首を傾げる部分があったので、それについてと、西洋思想史について若干の覚書を残しておく。 ●またルソーか。 B・ラッセルは『西洋哲学史』において「ルソーは狂乱していたが影響力をもち、ヒュームは正気であったが信奉者をもたなかった」と例の皮肉っぽい口調で述べているが、どうやら極東においては、引用者は多いが、誤読する人が多いようである。何時ぞやの宮台真司氏ほど酷くはないが、たとえば、『萌え理論Blog』というブログの『思想地図』の第一巻の書評エントリにおいて、 東浩紀氏が、ルソーの「一般意志」論を提出して、後半の第二部が始まる。ホッブズの場合、自然状態の混沌に秩序をもたらす主権者は「王」で明快だが、ルソーの主権者は「一般意志」と、具体的な人物
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