8月8日に膵(すい)がんのため67歳で亡くなった翁長雄志(おながたけし)前沖縄県知事の県民葬で、後継として初当選した玉城(たまき)デニー知事が行った式辞全文は以下の通り。 本日、菅義偉内閣官房長官をはじめ、ご来賓の方々のご臨席を賜り、ご遺族並びに県民多数のご列席を得て、ここに故翁長雄志元沖縄県知事の県民葬を執り行うに当たり、145万県民に代わり謹んで哀悼の意を表します。 生ある者は必ず滅するとは申しましても、この度の突然の訃報に、私たち県民一同、いまだに信じられない気持ちであります。
告別式には宮沢りえ、岸部一徳、YOU、沖田修一、黒木華、布川敏和、小林薫、松本明子、松村邦洋、安住紳一郎、中居正広、竹中直人、ラモス瑠偉、安藤和津、崔洋一、北大路欣也、西川美和、薬丸裕英、緒形直人、奥山和由、松田美由紀、前田航基、前田旺志郎、箭内道彦、笑福亭鶴瓶、寺田農、萬田久子、山本未來らも出席。関係者500人、一般参列者1000人、報道陣150人が集った。 樹木の戒名は「希鏡啓心大姉(ききょうけいしんだいし)」。「希」には樹木希林という芸名と、まれなという意味を含む。そして生前から役者は人の心を写し出す存在と語っていたことから「鏡」、本名である内田啓子から「啓」が選ばれた。 是枝裕和 弔辞書き起こし全文まずは告別式の場で、直接、お別れの言葉を告げられない非礼をお詫び申し上げます。ご遺族の方々、ご列席の皆さん、申し訳ありません。そして何より希林さん、ごめんなさい。もしかすると、私がその場
今月15日に亡くなった女優・樹木希林さん(享年75=本名・内田啓子さん)の告別式が30日に東京・港区の光林寺でしめやかに営まれた。夫でロックミュージシャンの内田裕也(78)が喪主を務め、長女でエッセイスト・女優の内田也哉子(42)、也哉子の夫で俳優・本木雅弘(52)らが参列した。 【写真】車いすで喪主を務めた内田裕也 喪主代理であいさつした也哉子は「私にとって母を語るのに、父・内田裕也をなくしては語れません。思えば、内田家は数少ない互いへのメッセージ発信を、いつも大勢の方々の承認のもとに行っていた奇妙な家族でした。また、生前、母は恥ずかしいことほど人前でさらけ出すという厄介な性分だったので、みなさまが困らない程度に少しお話させてください」と語りだした。 結婚してすぐに内田が家を出たため、也哉子が結婚するまで19年間、樹木さんと2人暮らしだった。也哉子が「なぜ、こういう関係を続けるのか」と聞
昨夜は家族団欒の晩飯を終えて、世間はワールドカップの喧騒に包まれる中、今夜中に終わらせようと思っていた『信長の野望 大志』の信州村上家での天下統一、征夷大将軍就任からの幕府を開くプレイで徹夜を覚悟していたのです。思ったより早く終わったので、歯を磨いて寝ようとして。 そこへ降って湧いたのが、「Hagex」こと岡本顕一郎さんの突然の訃報。最初は驚いたし、別人なんじゃないかという話も出ていて、ネットに釘付けになりました。彼のことが好きだったし、仕事やウォッチにおける彼の姿勢は真摯で、何より「くだらないことを続けられる能力」が高かった。「まさか」と思っていたことが、報道で彼本人である事実が突き付けられたとき、どうであれテロの犠牲になった彼の魂の平安を祈るしかない立場であることを忘れて、しばらく動揺していました。 犯人がどのような人物で、どんな動機をもって彼を刺殺したのか、私には分かりません。彼が所
ブルベの本書きました。「ブルベのすべて」 RAAM(Race Across AMerica)チャレンジ、PBP2007,2011,2015年参加記事へのリンクはすぐ↓のタブから。 昨日3/15、ニュージーランドの1200kmブルベに参加していたAJ会長、稲垣さんが事故で亡くなられた。 イナさんとの出会いはいつだっただろう?確か最初に話したのは埼玉ブルベでけいたさんに紹介されて、でもその前から会っていたかもしれない。イナさんがブルベに参加し始めたのは2009年、その後はすごい勢いでブルベに参加していき、2010年にはAJの年間走行距離は日本トップ、気がつけば会長になっていた。 僕とイナさんは長距離ブルベに参加する度に顔を合わせ、次第に会話も増えていった。僕もよく喋るので、みなが言う「よくしゃべるオジサン」という印象は抱かなかった。ずっと年上なのに速く、その時間は美味いものを食べたり名所を巡る
☆楽譜出版《ASKS.orchestra》交響曲,協奏曲,室内楽などのスコアを電子版(PDF)で販売中。海外向け→** 出版作品一覧→***NEW ◆《図解クラシック音楽大事典》(学研)イラストとまんがでオーケストラや楽典から音楽史までを紹介する掟破りの入門書。旧〈音楽大事典〉の超大幅改訂復刻版。 ◆《作曲は鳥のごとく》(春秋社)自らの作曲家生活を綴った独学の音楽史@2013年3月刊 ◆《調性で読み解くクラシック》(ヤマハ)調性および音楽の謎を楽理・楽器・科学・歴史から読み解く文庫版入門書。 24日、作曲家:広瀬量平さんが亡くなった。 広瀬さんは、かつての「現代音楽の時代」を作った綺羅星のような1930年前後生まれの日本の現代作曲家・・・武満徹(1930)、黛敏郎(1929)、松村禎三(1929)、間宮芳生(1929)、湯浅譲二(1929)、諸井誠(1930)、林光(1931)、外山雄三(
今日、十四年飼っていた犬が死んだ。ミニチュアダックスフンドのオス。名前は書かないでおく。 耳の中に腫瘍ができていて、摘出には手術が必要だったけれど年齢的に全身麻酔は厳しかったこともあり、消毒と薬でこれ以上大きくならないように対処していた。 視力も大分落ちて、いろんなところにぶつかりつつノロノロと家の中を歩いたり、自分で排泄することはできていたけれど、十日ほど前からそれもできなくなった。 一日のほとんどを寝て過ごしていた。頭を撫でると顔を上げて、床に這ったしっぽが左右に揺れたりした。水飲み場にも自分で行けなかったので、こまめにお皿に入れた水を口元に持って行っては飲みたいかどうか確かめていた。 四日ぐらい前から排泄したい、というアクションもなくなって、寝たままおしっこをするようになった。トイレシートを何枚も重ねて引いて、その上に犬を寝かせた。 おしっこをしたらシートを取り換えて、汚れた体を拭い
過去に谷口先生とやりとりしたメールを読み直しているうちに、先生がその場にまだいるような気がして涙が溢れてきてしまいました。 本当に心から敬っていた人を亡くすというのは、辛いことなのだと痛感しています。 これはアングレームでの特別企画用に作られた谷口先生の動画です。 僭越ながら私も谷口先生を敬愛する同業者として参加させて頂いています。 そしてこちらは
迷ったけど、中途半端に140字を連発して真意が伝わらないのが嫌なので、別の箇所に書いたものをここに転載する。 思い出などは特に書かない。自分のためだけにわがままな文を書く。 腹が立つ気持ちと、悲しい気持ちと、恐怖がかわるがわる訪れる。忙しい。気持ちだけで大変なので仕事などできない、と思いながらちゃんとギリギリのことはやっているので、自分の鈍感さを頼もしく感じながらも憂う。毎日15回くらい泣いている。昨日も起きていきなり泣いてびっくりした。今も泣いている。 昨日は人との仕事が終わったあともう何をしたらいいかわからず、国会図書館からなんとなく歩いた。歩いたら文藝春秋に着き、ホテルニューオータニの華やかな光の前を通り、土手に上って真っ暗な道を歩き、四ツ谷にたどりつき、四ツ谷のロンに初めて入った。喫煙可の表示を見て、思いつきで、吸わないタバコを買って来て吸った。強いものをやっても定着しないだろうと
吉田戦車 @yojizen ただただ悲しい。 漫画家の吉野朔実さんが死去 「少年は荒野をめざす」など(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160502-… #Yahooニュース 2016-05-02 16:07:56 吉田戦車 @yojizen 吉野朔実さんとは、一時期よく行っていた飲み屋の常連同士という形で知り合い、中川いさみと3人で映画鼎談などやったりしていました。その縁で、小規模にやりたいというご遺族のご意向の中、友人枠に入れていただき、先日葬儀に参列してまいりました。(続く) 2016-05-02 16:14:01 吉田戦車 @yojizen (続き)直前まで映画を観に行き、食事をし、行きつけのバーに顔を出すなど、普通の生活をなさっていた晩の急な出来事だったということです。翌日はお母様に会いに行く約束があり、手作
「大人は子供に『本を読め』と言うのではなく、読み聞かせて『語り』で子供を育ててほしい」と話す松谷みよ子さん=東京都練馬区で2014年7月23日、内藤絵美撮影 <老衰のため2月28日死去、89歳> 「またいらっしゃいね」。取材を終え、東京都練馬区のご自宅を辞する時、松谷さんはいつも豊かな笑顔でこう言ってくれた。包み込むように温かいそのほほ笑みは、すべての読者と作品に注がれた、深い愛情が表れているようだった。 0歳児から大人まで幅広く世代を超えて愛される、まれな作家だった。児童文学だけでなく、絵本、民話の再話、エッセーと多岐にわたった作品は、誰もが一度は手にしたことがあるだろう。数多くの作品の底流には、平和を希求し、社会の不条理に毅然(きぜん)と立ち向かう母の強さがあった。 「生きた証しを残したかった」。創作の原点に70年前の戦争があった。空襲が激しくなり死と隣り合わせの日々のなか、小さなメモ
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6182543 水木さんが逝かれた。 デスクワークしていたら立て続けにマスコミからコメント依頼がきて知った。 貸本時代にはほとんど知らず(「忍法秘話」では見ていたはず)、「ガロ」で作家として認識し、すっとぼけた中に尋常ならざるニヒリズムというか、索漠たる気配の漂う短編群が大好きだった。後年、捕虜生活中に描いた絵の、時間が止まった「死」の気配に、それが戦争体験とつながっているのを知った。いわゆる妖怪は、おそらくその「死」=「異界」からやってくる。そのはざまに立つのが、ねずみ男だったろう。 マンガ論を手塚を軸に始めたとき、手塚を相対化する存在のひとつが梶原一騎とならんで水木さんだったし、とにかく水木マンガのあの世界が好きだった。でも、インタビューでご本人にお会いして、いきなりその人を食った存在にやられ、「水木マンガも面白いけど、ご本
将監小屋のおやじさんが亡くなってしまったという。西御殿岩とか、和名倉山へ出掛けたついでに将監小屋へ立ち寄ってみれば小屋の片隅で黙々と手作業していたのが田辺さんだった。無愛想で口数は少なく、頑固者というのが第一印象だったが、声を掛けてみれば笑顔でいろいろな事を教えてくれた方だった。特に親しくしていた訳でもないが、やはり、あの場所へ行けば話しができるというだけで、将監小屋へ立ち寄っていた。この先、将監小屋を訪ねてもあの物静かなおやじさんがいないと思うと、どことなく寂しい。そんな事で今日は亡くなってしまったご主人を偲んで将監小屋で手を合わせることにした。 10月11日に行方不明となり、発見されたのが14日だったという。 キノコ狩りで山に入り、滑落してしまったようだ。 去年は将監小屋をベースに二泊三日のテント泊で奥秩父の山を楽しんだ思い出がある。 その時、朝八時に小屋へ着けば 『早いじゃね~か』と
死んでは花見が出来ないし、さよならだけが人生さ 音楽現代1995年7月号 原田力男氏の訃報を聞いたのは去る3月25日の夜。高久暁くんからの電話でだった。 そう言えば、原田さんと最後に話したのも、昨年春、妹がガンで死んだことを書いた私の原稿を読んでかかってきた十年ぶりの一本の電話だった。その時、彼は妹の病名を聞いて、「ボクも同じだよ」と言っていた。 それから一年後の1995年3月22日、原田さんは亡くなった。享年56。亡くなって初めて私は彼の歳を知った。 * 原田さんと初めて会ったのは1975年10月だから、もう20年も前のことになる。私は大学を中退して無職無収入のドン底をはい回っていた22歳のころだ。 そのころ作曲を私淑していた松村禎三氏から紹介された原田さんは、ピアノ調律師という仕事のかたわら「プライベート・コンサート」と銘打ったミニ・コンサートのプロデュースを企画していると言
これから書く文章の中には、読者のみなさんにとって、不愉快に感じられる箇所があるかもしれない。そのことをお許し願いたい。 わたしは大学を卒業していない。入学したが、わけあって大学を離れた。親や友人との交際も絶って、肉体労働をしながら、小さな小さな世界で生きた20代だった。 20代の終わり頃、腰を痛め、肉体労働もできなくなった。妻子とも別れ、養育費を送る身だったのに、金を稼ぐ術を失った。おまけに、ひどいギャンブル依存症になっていた。つてをたどり、やれる仕事は、他人にはいえないようなものでもやった。その一つが「女衒(ぜげん)」だった。簡単にいうなら、売春の斡旋である。 インターネットなどなかったから、三流夕刊紙に、内容をほのめかした広告を出す。男たちが電話をかけてきて、その男たちに女の子を紹介する。そんな、ヤクザがやっている商売の一番下っぱの仕事をした。わたしは、もっぱら新大久保のラブホテルに女
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