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ブックマーク / asread.info (11)

  • 「集団的自衛権」より「集団安全保障」

  • パッチワーク経済学-リフレ派の幻想-(後編)

    前編は以下からご覧ください。 パッチワーク経済学-リフレ派の幻想-(前篇) マネタリズムとケインズ経済学の邂逅? リフレ派は量的緩和政策によってベースマネーを増やすことはできるが、マネーストックを増加させることはできないことを認識しつつあります。それゆえ「デフレは貨幣現象である」と貨幣数量説に依拠した発言をするかたわら、数量説とは別の経路でマネーストックを増加させる「技(理屈)」を考えました。それはベースマネー増加とマネーストックの増加の因果関係の間に「中長期的な物価水準はマクロ的諸要因によって決定される」というワン・クッションを置くことでした。サッカーに例えれば、直接フリーキックから間接フリーキックへ切り替えたようなものです。 マクロ的諸要因とは需給ギャップ、失業率、予想インフレ率等です。しかし同時に、リフレ派は、特に岩田副総裁は、そうしたマクロ的諸要因をマネタリーベースの拡大と2%イン

    パッチワーク経済学-リフレ派の幻想-(後編)
  • パッチワーク経済学-リフレ派の幻想-(前篇)

    前回は潜在GDPの定義をめぐる議論についてお話ししました(拙稿『見たくないものを消し去るという大愚-潜在成長率のパラドックス-』参照)。日における潜在GDPの定義には、既存の諸資源を全て投入した場合の産出量として定義される「最大概念の潜在GDP」と、諸資源の過去平均の投入量によって決まる産出量として定義される「平均概念の潜在GDP」があり、現在の日では内閣府も日銀も平均概念を使っていることをお話ししました。さらに平均概念の潜在GDPは過去の総需要によって決定されたものであり、巷間言われているような「供給能力を増強することにより潜在成長率を高める」といった政策手段は、デフレギャップが存在する状況下では、かえって潜在成長率を低下させてしまうという逆説を示しました。 両巨頭の勘違い 周知のとおり、現在、日銀が実施している量的緩和政策はリフレ派と呼ばれる一群の経済学者達の考え方に基づいています

    パッチワーク経済学-リフレ派の幻想-(前篇)
  • 今更聞けないTPP ―協定の内容を知る人たちの正体

    TPP問題に関しては知れば知るほど驚くことが多いのですが、中でも一番驚いたのは、国民の生活に深く関わるルール作りをする貿易協定について、TPPを推進する米国企業の代表はいつでも自由に交渉内容を知ることができ、交渉内容に口を出すことができるにも関わらず、米国を含む参加国の議員が交渉内容を知ることができない、ということでした。 USTRの使命は通商交渉を通して米国の法律を世界に輸出することですから、強硬に要求を押し付けてきます。しかしいくらジャイアンルールを押し付けてくるアメリカでも、合意し、批准してしまった国際協定で発生する義務には従わなければなりません。もちろん交渉の内容によっては法律や規制に影響を与えてしまいます。交渉の方向性を、国民から選挙で選ばれ、来憲法で通商交渉権限を保証された連邦議員ではなく、企業のトップが勝手に決めてしまって問題にならないのか、と疑問に思われる方も多いのではな

    今更聞けないTPP ―協定の内容を知る人たちの正体
  • なぜ中東で戦争が起こるのか ー押し付けられる欧米の価値観ー

  • 昭和恐慌を曲解するリフレ論者 ー 失われた20年の正体(その12)

    こんにちは、島倉原です。 今回は米国大恐慌から目を転じて、日のリフレ論者の方々が持論の実証事例としてしばしば取り上げる、同時代の日歴史的恐慌である「昭和恐慌」、及びそこからの脱却をもたらしたとされる「高橋財政」について取り上げてみたいと思います。 金融緩和と財政支出拡大をパッケージ化した高橋財政 高橋財政とは、昭和初期に大蔵大臣を務めた高橋是清(在任:1931年12月~1936年2月)の下で実施された一連の経済政策を指します。 当時の日は、第一次世界大戦終了後の慢性的なデフレ不況状態のところに、片岡蔵相の失言に端を発する銀行取り付け騒ぎ(昭和金融恐慌、1927年)や米国発の世界恐慌(1929年~)、さらには浜口民政党内閣の下で実施された旧平価(当時の経済実態より円を過大評価した水準)での金位制復帰(1930年)による円高不況が追い打ちをかけ、「昭和恐慌」と呼ばれる戦前で最も深刻な

    昭和恐慌を曲解するリフレ論者 ー 失われた20年の正体(その12)
  • 経済社会学のすゝめ - 青木泰樹 連載【第1回】

    はじめまして。今回から寄稿させていただくことになりました青木泰樹です。宜しくお願い致します。 もっぱら経済関係の話題についてお話ししたいと思いますが、その内容は世間一般の経済学者の見解とはかなり異なったものになると思います。なぜなら、私の依拠する経済社会学は、既存の経済学の枠に収まらない部分を分析対象とするものだからです。収まりきらない所にこそ現実における真理があると私は考えております。初回はその辺りの事情について説明したいと思います。 複雑な社会をどう理解するか 社会は複雑です。壁を這う蔦(ツタ)のように様々な要因が絡み合っています。それを解きほぐし、その一から社会事象を理解しようとするのが社会科学を構成する各学科(社会諸科学)です。複雑なものを最初から丸ごと理解することはできないので、複雑さの一面だけを取り出そうとしたのです。それゆえ各学科は相互に孤立した学問として出発しました。

    経済社会学のすゝめ - 青木泰樹 連載【第1回】
  • 社会的紐帯を支える社会保障制度ー社会保障制度の在り方を考えるー

    社会保障制度について、あなたはどう考えていますか? 社会保障制度にたいして、世間で一般的に「保守」と(自称も含めて)呼ばれている人たちからは、しばしば否定的な意見が聞かれます。それは、公共サービスの拡大によって自立精神が衰弱し、逆に依存心が増大すると、財政の膨張と負担の増大を招き、経済の活力を損なうとともに、社会全体にエゴが蔓延するという批判です。こうした主張は以前からかなり広く流布しています。とりわけ「小さな政府」を支持する人たちは、社会保障だけではなく、公共投資教育などを含め、おおよそあらゆる政府の事業を否定的に捉える傾向がありますが、彼らは近年、財政再建を声高に叫ぶのにつれて、歳出で大きな比重を占めている社会保障費を最大の標的にしています。 ところが、ほんの数年前には、社会保障制度をめぐって、まったく逆の問題が指摘されていました。それは、新自由主義的な構造改革路線の結果、社会保障制

    社会的紐帯を支える社会保障制度ー社会保障制度の在り方を考えるー
  • ものに潜む陰

    は今20年以上続くデフレ状態にありそれによる低賃金に、特に若者世代が喘いでいるなかでダイソーやユニクロの商品で生活している人々が多いと見ていますが、あるとき疲れて家に帰り照明をつけ、照らされる自分の部屋を見渡して安っぽい、言ってしまえば半ばゴミのようなものばかりが自分の生活を構成しているのを確認したとき、虚しさを覚える人も少なくないのではないかと思います。たまにリッチな人と会う機会などあると、自分が惨めでしょうがないと思うこともあるのではないでしょうか。 あなたも私も、ものに埋もれて生きている。その陰に人の気持がある。 私は今世の中に物が溢れ過ぎていると考えています。いっとき前「断捨離」のブームがあり、私も漫画家 中崎タツヤさんの、家の中にほとんど物がない(例えば時刻を知らせるものはエアコンのリモコンだけ、ガスコンロを捨てようかいつも迷う。寝るのに使うのは寝袋のみ。など)その生活様式を

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  • クルマ社会がもたらす地方都市の荒廃 – 新しい交通システムLRTに未来はあるか

    モータリゼーションによって消えつつある駅前の商店街 近年、路面電車の再評価が行われ、世界の各都市で路線の復活や新設が進んでいます。LRT(Light Rail Transit)という、機能や意匠の優れた交通システムとして再生しているのです。特にヨーロッパの都市で、電停との段差のない瀟洒な車両が、街の風景を生き生きと演出している様子は有名です。 この背景には、自動車の自由放任がもたらす都市の荒廃への危機意識がありました。というのも、騒音や排ガスが都市の環境を汚染し、「足」の高速機械化が都市のスプロール化を促進し、そして、「走る凶器」となった車体が人命を損傷してきたからです。 わが国も高度成長期以降、自動車での移動を前提とする都市政策を推進してきました。そのため、特に地方において、都市は見るも無惨に破壊されました。狭い旧市街にはコインパーキングが増殖し、街並みは虫い状態になり、さらに、青空駐

    クルマ社会がもたらす地方都市の荒廃 – 新しい交通システムLRTに未来はあるか
  • 古市憲寿が日本のために戦うと言うとき [後編]

    個人と国家 個人と国家、この二つの異なった根拠から、二つの道徳が導かれます。 古市さんは、「自分の個人の命より大事なものってなかなかないと思うんですね。自分の命を犠牲にしても国家のために戦うんだったら、個人の命を大事にする、これ誰しも成熟した国の国民の対応として…」と述べています。まさしく個人を根拠とした道徳です。この道徳は、国家を根拠とした道徳の観点からは、まさしく非道徳的に見えてしまうのです。 では、この個人を根拠とした道徳は、彼の言うように成熟した国の国民のものなのでしょうか? その答えは、やはりNOだと言わざるをえません。 その理由は実に簡単で、そのような国民による国家は、軍隊は当然のこと、警察や消防のような治安維持のための機構がうまく機能しなくなるからです。警察官や消防団員は、見知らぬ人のために自らの命を危険にさらす職業です。それは国家を根拠とした道徳によって賛美される行為であり

    古市憲寿が日本のために戦うと言うとき [後編]
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