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  • 大和の戦乱と応仁の乱のはじまり~大和武士の興亡(4) - 大和徒然草子

    室町時代は一般に将軍権力が弱く、有力守護大名たちのパワーバランスによって、不安定ながらも秩序が守られていた時代です。 そんな室町時代で三代将軍・足利義満は、守護大名達の家督争いに介入してその力を分散し、巧みに対立する各守護家家中の派閥と合従連衡を繰り返すことで自らのプレゼンスを高め、室町時代を通じて最高の権勢を誇りました。 以後、この手法は歴代足利将軍たちの常套手段となり、六代・義教、八代・義政へと引き継がれていきます。 前回は、万人恐怖と恐れられた六代将軍・義教が嘉吉の変で暗殺された後、大和国で10年以上も続くことになった興福寺の権益・川上五ヶ関を巡る争乱について紹介しました。 義教の死によって復活した畠山持国は、管領になると大和の紛争に介入し、義教によって没落していた旧南朝方の越智氏や大乗院門跡だった経覚を支援して、大和の戦乱を再燃させます。 一方、中央政局で畠山氏と主導権を争う細川勝

    大和の戦乱と応仁の乱のはじまり~大和武士の興亡(4) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/06/16
    応仁の乱の主たる原因となった畠山氏家督をめぐる争いは大和を主戦場として行われました。この時の両派がそのまま大和の応仁の乱における東軍、西軍へとなっていきます。
  • 梅雨の花、梅雨の景色【朝の生駒あたり】 - ものづくりとことだまの国

    生駒駅から歩き始めて、目に鮮やかなキョウチクトウの花。 キョウチクトウ 竜田川(たつたがわ)と生駒山。 睡蓮の池。見頃ですね。 池の畔で写真を撮っていると、芦の茂みの向こうから、ガーガー。 そーっと近づくと、もっと大きな啼き声。カモのカップルに『それ以上、近寄るらんといてっ!』と言われました。デート中にどーもスミマセンでした。(ツイッター・ログインが必要です。) #ドナルドダック。警告されたか。 pic.twitter.com/Zmrfd1S33z— 開物発事 (@Kai_Hatu) 2021年6月26日 稲蔵神社(奈良県生駒市小明町)の鳥居そばの田んぼ。苗がすくすく育ってますね。雨がポツッポツッと。 お詣り中。雨が結構降ってきました。 www.zero-position.com ***** 昨日、紹介した宝山寺(奈良県生駒市門前町)の今ごろの景色。 奥の院で出会った「ハル」と「ナツ」のサ

    梅雨の花、梅雨の景色【朝の生駒あたり】 - ものづくりとことだまの国
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    yamatkohriyaman 2023/06/15
    アジサイきれいですねー
  • 古事記の神様と神社・ご近所編Part3(85)~大鳥神社~初めて見た神紋 - のと爺の古事記散歩

    面影橋から乗車し、次は大鳥神社を目指して前回下りた都電雑司ヶ谷の一つ手前の鬼子母神前で下車しました。同神社はこの二つの駅のちょうど中間ぐらいにあります。 今度は通行止めになっていませんように・・・。お願いしますよ~。 1.場所 2.ご由緒とご祭神 3.参拝 4.社殿 5.境内社 6.その他境内 7.ご朱印 8.まとめ 1.場所 ここです。 2.ご由緒とご祭神 江戸時代中期の正徳二年(1712年)鷺明神と称され、鬼子母神境内に創祀。明治の神仏分離により現地に移されたとのこと。 ご祭神は日武命(やまとたけるのみこと、古事記では倭建命)、相殿には倉稲魂命が祀られています。 当社HPが見当たらなかったので東京都神社庁紹介のものを貼ります。 3.参拝 鬼子母神前で下車し、線路沿いの道を北上するとやがて鳥居が見えてきました。今度こそたどり着けました。 ▼鳥居をくぐるとちょっと珍しいスタイルの狛犬です

    古事記の神様と神社・ご近所編Part3(85)~大鳥神社~初めて見た神紋 - のと爺の古事記散歩
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/12
    荒川線に揺られて鬼子母神にはお参りしたんですがこちらの神社は知りませんでした。雑司ヶ谷近辺も感じのいい場所多いですねー。
  • 【ハスの葉】梅雨の見物 小さな水鏡【大川 ひょうたん池】 - ものづくりとことだまの国

    ちょうどよい小雨の朝、淀川流から分岐し、大阪市内に流れる #大川 沿いの #ひょうたん池に #梅雨 の見学。鮮やかな緑のハスの葉の上で、大小さまざまな雨粒が輝いていました 目次 大川 ひょうたん池 梅雨の見物 小さな水鏡 文 大川 ひょうたん池 小雨の朝、淀川流から大阪市内に流れる大川沿いのひょうたん池へ。 (34.6950038, 135.5234944)/大阪市都島区網島町10/JR大阪環状線・桜ノ宮駅から徒歩約二十分。大川沿い 花にはまだ早いですが、ちょうどよいシトシト雨。 ひょうたん池 蓮の葉にたまっては落ちる雨粒の水玉を見物に。 梅雨の見物 小さな水鏡 キラキラ輝く宝石のようです。 よかったら雨音と一緒にお楽しみください。 #梅雨 の見物 pic.twitter.com/BtRGI2dUih— 開物発事 (@Kai_Hatu) 2023年6月10日 時々、たまった雨が、シャ

    【ハスの葉】梅雨の見物 小さな水鏡【大川 ひょうたん池】 - ものづくりとことだまの国
  • 高原にそびえた大和第三の近世城郭・宇陀松山城~破却された幻の城郭を歩く - 大和徒然草子

    奈良県内の近世城郭といえば、桜の名所として名高い大和郡山市の郡山城、山麓の巨大石垣群が壮観な高取町の高取城が、城跡としては有名ですが、実はもう一つ大規模な近世城郭が存在しました。 奈良県東部、大和高原地域に位置する宇陀市大宇陀の古城山(しろやま・標高473m)に築かれた宇陀松山城です。 江戸時代の初めに廃城・破却されたこともあり、郡山城、高取城と比べると知名度は低いものの、近年発掘調査と城跡整備も進み、見ごたえ十分の城跡になってきました。 今回は宇陀松山城の概略史と現在の城跡の様子をご紹介します。 宇陀松山城とは まちかどラボ 基情報 秋山下城 城内 横堀~南西虎口 丸 天守郭 帯郭(南側)・南虎口周辺 南東虎口~大御殿郭 西口関門~春日門 参考文献 宇陀松山城とは 宇陀松山城の場所はこちら。 宇陀松山城は、有名な桜の名木・又兵衛桜のある宇陀市の大宇陀地区にあり、高取城、郡山城とともに

    高原にそびえた大和第三の近世城郭・宇陀松山城~破却された幻の城郭を歩く - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/09
    奈良県内では3番目に整備された近世城郭だったが1615年に廃城破却された幻の城跡。大規模な破却の跡が残り破却の様子を記した文献も残る点で貴重な遺構である。
  • 【桃谷商店街】静かに鳴り響く、懐かしい昭和の喧騒【ディープ大阪】 - ものづくりとことだまの国

    JR環状線・桃谷駅から東の疎開通り(御幸通)に繋がる #桃谷商店街。大阪市内でも古い商店街で、今でも昭和の雰囲気が数々残る #ディープ大阪 の景色 #昭和レトロ 目次 桃谷商店街 記憶によみがえる昭和の喧騒 文 桃谷商店街 (34.65770280497519, 135.52779397381966 ~ 34.65797528056009, 135.5330029217983)/大阪市生野区/JR環状線桃谷駅から東 JR環状線・桃谷駅(大阪市天王寺区)を下車して、東に向かう桃谷商店街(ももだにしょうてんがい)。 最近増えてきた外国人観光客はもちろん、日人観光客のスガタもない、地元の人だけの、真のディープ大阪、 昭和の景色をキリトッテ、少しだけ紹介。 桃谷商店街(東側の奥から撮影) ほんとうは、お好み焼きべたい奥さんと行ったのですが、肝心のお店が長期休業中。 通りのお店の半分近くがお

    【桃谷商店街】静かに鳴り響く、懐かしい昭和の喧騒【ディープ大阪】 - ものづくりとことだまの国
  • 【津島神社(5)】東日本と西日本を結ぶ海の回廊 - ものづくりとことだまの国

    名古屋の古地形図を眺めていますと、桑名を西岸に、#津島神社 〜琵琶島(清洲)〜#熱田神宮 のラインは、古代の西国と東国を結ぶ #海の回廊 であった様子が見えてきます。#ミシャグジ信仰 #天白信仰 目次 古代の海の回廊 東国と西国を結ぶところ 古代の信仰圏 文 古代の海の回廊 【前回記事】 www.zero-position.com 創建時、あるいは、神社社殿創建前の、津島神社の地を考えるため、グーグルマップに書き込んでみました。 黄色の○・黄色ラインが日のテーマの 古代の海の回廊。 弥生時代後期〜古墳時代というところでしょうか。 時代が進んで、江戸期、白○が東海道の宿場町・西の宮宿と東の桑名宿を結ぶ 七里の渡し(水路) 古代の海の回廊。江戸期・東海道の唯一の水路「七里の渡し」 江戸期においても、宮宿と桑名宿は水路(七里の渡し)で結ばれていたわけですから、現在の名古屋市を中心とした都市部

    【津島神社(5)】東日本と西日本を結ぶ海の回廊 - ものづくりとことだまの国
  • 「憧れを超えた侍たち」とボブ・ホーナー - 安威川敏樹のネターランド王国

    映画「憧れを超えた侍たち 世界一への記録」を観た。 言うまでもなく、今年(2023年)に行われた第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝した野球日本代表(侍ジャパン)のドキュメンタリー映画である。 ネタバレを防ぐため、あまり詳しいことは書かないが、試合中でもグラウンド外であれだけカメラが回っているとは思わなかった。 もちろん、世界一が懸かった試合中なので、カメラが回っていても選手たちは演技をしているわけではない。 特に驚いたのが、ベンチ裏での佐々木朗希投手の行動。 普段の佐々木からは想像できない姿がそこにあった。 ちょっとだけネタバレすれば、佐々木朗希がベンチ裏で「下柳」になったのだ。 もし、侍ジャパンが優勝していなければ映画は公開されず、この映像はお蔵入りになっていただろう。 なお、映画が終わってエンドロールが流れ始めると席を立って帰る人がいるが、これは絶対にやめていただ

    「憧れを超えた侍たち」とボブ・ホーナー - 安威川敏樹のネターランド王国
  • 河原者と天部について~その③ 「肉食は穢れ」の禁忌(タブー)は、どこから来たのか - 根来戦記の世界

    イザナギ・イザナミの黄泉平坂(よもつひらさか)の神話からも分かるように、神道における「死の穢れ」を強く忌む風習は、古くからあったものだ。古代日においては「陵戸」という墓守を職とする人たちがいたが、律令制下においては彼らは賤民の一種とされていた。昔はこの「陵戸」こそが、中世につながる被差別民の原型である、という説が主流だったのだが、現在では概ね否定されているようだ。 神道にはこの「死の穢れ」とは別に、「肉をべること」への禁忌もあったから、延喜式においては「肉」も穢れと規定されている。しかし、これは比較的新しい考え方であった。 神道はとても古く、その起源はおそらく縄文時代の精霊信仰(アニミズム)にまで遡ることができる宗教である。古代人は当然のごとく肉していたわけで、奈良期の日では用のための牧畜もしており、豚を飼っていたという記録すらあるのだ。そんなわけで、神道もまた肉を是としてい

    河原者と天部について~その③ 「肉食は穢れ」の禁忌(タブー)は、どこから来たのか - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/04
    仏教と死穢との関連性興味深いですね。真言律宗の叡尊や忍性が様々な場所を殺生禁断の地にしたことも思い出し関連を興味深く考えさせられました。
  • 応仁の乱への道~大和武士の興亡(3) - 大和徒然草子

    南北朝の争乱以来、大和の武士たちは相次ぐ戦いの中でその力を扶植し、興福寺の影響下から徐々に離脱し始めます。 南北朝合一後も相次ぐ衆徒・国民の私合戦に手を焼いた興福寺は、ついに室町幕府へ合戦の調停を要請し、大和武士たちは将軍の下で私合戦の停止を誓約しました。 この誓約により大和武士たちへの指揮命令権は興福寺から室町幕府へ移り、興福寺の「大和守護」としての地位は有名無実化。 興福寺傘下の衆徒を統率する官符衆徒棟梁が、事実上他国における守護代と変わらぬ役割となり、仏教王国大和において、寺門に対する武士たちの下剋上がさらに促されることになります。 しかし平和は長続きせず、大御所・足利義持が後継を定めずに急死して幕政が混乱する中、1429(正長2)年に新将軍・足利義教が誕生。 それから間もなく小さな国人間の争いを火種として、大和国中を巻き込んだ大乱・大和永享の乱が勃発しました。 戦いは10年にわたっ

    応仁の乱への道~大和武士の興亡(3) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/02
    南北朝の争乱から大和永享の乱と続いた大和の争乱は嘉吉の変後による中央政局の混乱により止むことなく続きました。川上五ヶ関の権益を巡る紛争はその後の応仁の乱の火種の一つとなりました。
  • 【津島神社(4)】古代の浅海のこん跡 - ものづくりとことだまの国

    古代伊勢湾、浅海の浮島に創建(古墳時代後期、欽明天皇元年)された #津島神社。 当時の地形を考えながら、境内で水辺のこん跡を探しました 目次 名古屋の古代の地形・海岸線 弥生の海退と(古墳時代の)沖積平野の形成 津島神社の水辺のこん跡 文 名古屋の古代の地形・海岸線 名古屋の歴史を紹介するサイトに掲載された古代の地形(海岸線、下記リンク) ○印で囲ったところが、津島神社の位置。 古墳時代後期の創建当時(欽明天皇元年、540)、津島神社は遠浅の海に浮かぶ島でありました 名古屋の古代の地形(元絵は尾張國養老元年之図) 現在、津島神社は、伊勢湾の海岸線(木曽川河口)から約10キロの内陸に位置しますから、古地形を想像するのはたいへん難しいですね。 現在の名古屋地図 なお、冒頭の古地形は、猿投神社(さなげじんじゃ、愛知県豊田市猿投町)に伝えられる「尾張國養老元年之図(伝・奈良時代)」という古地図を

    【津島神社(4)】古代の浅海のこん跡 - ものづくりとことだまの国
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/01
    津島という名前自体が港のある島ってことですからやっぱりもともと島だったんですよね。名古屋の南側は江戸時代くらいまで熱田の西側にはすぐ海で近代になって地形が激変した場所で痕跡探しは楽しいです。
  • 【津島神社(3)】スサノオ神(牛頭天王)の四つの魂を祀る境内社【六社参り】 - ものづくりとことだまの国

    尾張なごや #津島神社 の三回目。境内にはたくさんの摂社末社が並びますが、御祭神 #須佐之男命 の #荒魂 #和魂 #幸魂 #奇魂 をそれぞれ祀る社が残っているのは大変珍しいとのこと。なお御殿はこの4つの魂を併せ持った直霊(なおひ)を祀ります 目次 津島神社(境内摂社)六社参り 居森社と麻社(はしかのやしろ) 和魂社(にぎみたまのやしろ)と柏樹社(かしわぎのやしろ) 津島神社 御殿(スサノオ神の直霊、なおひを祀る) 荒魂社(あらみたましゃ) 文 津島神社(境内摂社)六社参り 津島神社(境内摂社)六社参り〇印(左下の居森社境内に居森社と疹社) 案内より)津島神社は、欽明天皇元年(540)に 西国対馬から須佐之男命が居森の地にご来臨 されたのが始まりとされ、当初は「津島社」と呼ばれていました。その後、仏教が伝来し、「神仏習合」という考えが生まれ、日の神は仏の化身であるとされ、津島神社の

    【津島神社(3)】スサノオ神(牛頭天王)の四つの魂を祀る境内社【六社参り】 - ものづくりとことだまの国
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/05/28
    ヤマタノオロチを祭神にしている神社ははじめて知りました❗️
  • 【津島神社(2)】牛頭天王とスサノオ神 - ものづくりとことだまの国

    尾張なごやの #津島神社(2回目)。御祭神の建速須佐之男命は、江戸期まで #牛頭天王 と尊称された除厄の神様。明治期にスサノオ神に統一されました。このあたりの経緯について夏に斎行される #天王祭 から考えてみました #京都八坂神社 #祇園祭 目次 疫病を封じる牛頭天王 牛頭天王を祀る天王祭(祇園祭との関係) 尾張津島の建速須佐之男命(京都八坂は素戔嗚尊) 文 www.zero-position.com 疫病を封じる牛頭天王 津島神社の休憩所に「スサノオ神が厄神を退治する図」という絵が掲げられていました。 須佐之男命厄神退治之図(スサノオ神が厄神を退治する図)模写ボールペン図 「元絵は、葛飾北斎86歳の時に、牛島神社(東京都墨田区)に奉納した肉筆絵で、スサノオ神と4人の従者の前に15人の厄神がひざまずき、今後厄病や災いを起こさないことを誓う証文を取っている様を描いたたもの」で、 残念ながら

    【津島神社(2)】牛頭天王とスサノオ神 - ものづくりとことだまの国
  • 上街道沿いの幻の中世城跡・井戸城と別所城~上街道散歩(2) - 大和徒然草子

    奈良県内には環濠集落も含めると約560もの城郭が存在するとされますが、文献には登場せず、当時の呼び名もわからない城跡が多数あります。 そんな中、逆に史料上頻出しながら位置を特定できていない城郭もあります。 今回ご紹介する井戸城もそんな城郭の一つです。 井戸城とは 井戸城(磯上塁)周辺 上街道(石上町~田部町) 別所城近辺 参考文献 上街道の散策スポット 井戸城とは 井戸城は井戸氏の拠点として史料上に度々その名が現れる城跡です。 井戸氏は一乗院方坊人・衆徒で、血縁関係にあった筒井氏と行動を共にしていたこともあり、中世大和の歴史に度々姿を現す一族でした。 1429(正長2)~39(永享11)年まで、10年間にわたって大和国内全土を巻き込んだ大乱・大和永享の乱は、井戸氏が近隣の豊田氏と起こした小競り合いが原因でした。 また、戦国末期の当主・井戸良弘は筒井順慶の重臣として活躍し、松永久秀との抗争で

    上街道沿いの幻の中世城跡・井戸城と別所城~上街道散歩(2) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/05/26
    筒井氏重臣、井戸良弘の居城、井戸城は一次史料に頻出する城郭でありながら場所の特定が出来ていないお城です。二次史料から見える天理市の候補地を紹介します。
  • 戦国時代の京都について~その⑬ 天文法華の乱・その後の京 - 根来戦記の世界

    この「天文法華の乱」を以てして「日における宗教戦争のひとつ」と論じる人いるが、どうだろうか。宗教戦争の定義にもよるが、確かにそういう面もあるだろう。開戦に至った契機は、教義上の争いである「松問答」なのだから。 だが教義上の違いが問題になったというよりも、叡山にとっては論争に負けて面子を潰された、という体面の問題の方が大きかったように思われる。この時代、体面を潰されて黙っていることは、己の権益を保証している社会的な地位が下がることに直結したから、叡山としては絶対に見過ごすことのできない大問題だったのである。 また京という強大な権益を生み出す都を、日蓮宗の手から取り戻したい、という思惑もあっただろう。経済的な動機も大きかったのではないだろうか。 その証左となるのが、乱の後の叡山の動きである。日蓮宗寺院は粘り強く、京への還住を目指し、各方面と交渉を続ける。そして先の乱より10年たった1547

    戦国時代の京都について~その⑬ 天文法華の乱・その後の京 - 根来戦記の世界
  • 古事記の神様と神社・ご近所編Part3(82)~太子堂八幡神社~ウサギに癒される? - のと爺の古事記散歩

    前回の世田谷八幡宮の参拝を終え、再び宮の坂駅から世田谷線に乗り、西太子堂駅で下車しました。向かったのは太子堂八幡神社(たいしどうはちまんじんじゃ)です。 太子堂とは聖徳太子をお祀りするお堂のことで、かつては当社の別当寺を担った円泉寺というお寺に太子堂があったことから、ここ一帯の地名にもなっているとのことです。ちなみに、八幡神社の住所は世田谷区太子堂5丁目です。 1.場所 2.ご由緒とご祭神 3.参拝 4.社殿 5.境内社 6.その他境内 7.ご朱印 8.まとめ 1.場所 ここです。 2.ご由緒とご祭神 創建は不詳ながら、源頼義、義家親子が前九年の役征伐に赴く途中で戦勝祈願で参拝したと言われていることから、頼義親子の奥州赴任の1051年以前には存在していたと伝わっている。ご祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと:第15代応神天皇)です。 当社HPはこちらです。 3.参拝 西太子堂駅で下車、住宅

    古事記の神様と神社・ご近所編Part3(82)~太子堂八幡神社~ウサギに癒される? - のと爺の古事記散歩
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/05/23
    関東って源頼義、義家親子が前九年の役の必勝祈願に創建したと伝わる神社が本当に多いですよね。ウサギ可愛いです!
  • 【三囲神社(2)】三柱鳥居が物語る三井家と秦氏の「点と線」 - ものづくりとことだまの国

    墨田区向島 #三囲神社。境内の #三柱鳥居(三角石鳥居)は、旧三井家にあったものをこちらに移設。京都 #太秦 #木島坐天照御魂神社(木島神社、蚕の社)の同型をモデルに造られました 目次 三囲神社(東京都墨田区向島) 三囲神社の三柱鳥居 三囲神社境内のお稲荷さん 文 www.zero-position.com 三囲神社(東京都墨田区向島) 昨年、一度、来てはいたんですが、付近の駐車場がどこも満杯で、参拝を断念していました(三囲神社には駐車場はありません) 今年は早朝に訪れ、駐車場も空いており、無事参拝。 三囲神社(みめぐりじんじゃ)拝殿 三囲神社 三囲神社の三柱鳥居 見てみたいと思っていた、境内の三柱鳥居(三角石鳥居)。 三囲神社 境内の三柱鳥居 この鳥居は元々、旧三井邸にありましたが、こちらに移設されたそうです。 三囲神社 三柱鳥居(三角石鳥居) 珍しい形の鳥居は、京都・太秦(うずまさ)

    【三囲神社(2)】三柱鳥居が物語る三井家と秦氏の「点と線」 - ものづくりとことだまの国
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    yamatkohriyaman 2023/05/22
    東京も意外と落ち着いた神社多いんですよねー
  • 【三囲神社(みめぐりじんじゃ)】江戸に進出した三井家【越後屋】の守護神【ライオン像】 - ものづくりとことだまの国

    近江の #三井家 が江戸に進出したのが向島。守護神とした #三囲神社(みめぐりじんじゃ)。#現金安売り掛け値なし の商売で #越後屋 は大繁盛。明治以降、三井呉服店は、三越百貨店、さらには三井グループと大発展 #ライオン像 #みめぐりのコンコンさん 目次 三囲神社(みめぐりじんじゃ) 三囲神社 参拝 文 三囲神社(みめぐりじんじゃ) 三囲神社(みめぐりじんじゃ) (35.71510508604085, 139.80665116929544)/東京都墨田区向島2丁目5−17/東武伊勢崎線業平橋駅より徒歩7分 都営浅草線所吾橋駅より徒歩8分。駐車場・トイレはありません 三囲という名は、社殿改築の際、土中から出土した老翁の像のまわりを、白狐が、クルクルクルと三回ったところから付いたそうです。 (平安時代)弘法大師が祀ったとされる田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地より北の田んぼの中にあ

    【三囲神社(みめぐりじんじゃ)】江戸に進出した三井家【越後屋】の守護神【ライオン像】 - ものづくりとことだまの国
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    yamatkohriyaman 2023/05/20
    務めてた会社の事務所が近所だったのでよく通りかかりました。なつかしー
  • 戦国時代の京都について~その⑩ 天文法華の乱・宗教的な自治組織「衆会(しゅうえ)の衆」 - 根来戦記の世界

    洛中洛外における検断権、地子銭などの納税拒否、そして遂には京周辺の村落の代官請の要求など、未だかつてないほど高まった、町衆らによる京の自治権。だが注意しておきたいのは、日蓮宗(法華宗)を核としたこの「衆会の衆」を、地縁を元とした「京の町衆」とを同一視してよいのか、という問題である。 過去の記事で、共同体の例として、①「宗教」②「座」③「村落共同体」などがあると述べたが、こうした共同体は必ずしも単独の要素のみで存在するわけではない。複数の要素が錯綜して、入り組んだ関係となっているのが殆どである。 例えば商業都市である堺は、①は主に「日蓮宗」、②の商業的組織である「会合衆」と、③の村落共同体組織である「南荘」「北荘」、これら3つの要素が混ざって構成されていた。これらの共同体によって、どのようなバランスで自治が成されていたかは論争が続いているが、少なくとも戦国後期の堺においては、②の豪商らで構成

    戦国時代の京都について~その⑩ 天文法華の乱・宗教的な自治組織「衆会(しゅうえ)の衆」 - 根来戦記の世界
  • 南北朝の争乱・興福寺支配の解体と大和永享の乱~大和武士の興亡(2) - 大和徒然草子

    平安時代から鎌倉時代にかけ、興福寺は、武装した荘官たちを衆徒・国民として傘下に吸収し、その武力を背景として大和国内の支配権を確立しました。 鎌倉時代、幕府からは半ば独立していた大和国内では、興福寺の別当(長官)を輩出する一乗院と大乗院の二大院家が役職や荘園、院家の相続を巡って激しく対立し、鎌倉末期の13世紀末には永仁の南都闘乱と呼ばれる武力紛争が勃発。 朝廷や幕府の介入でようやく混乱が鎮められるましたが、興福寺の権威は徐々に陰りを見せ始めます。 また、鎌倉時代末期には農業生産力の向上で余剰生産が増え、荘園・公領では有力名主の経済力が増すとともに、武装して領主の介入や支配に反抗的な悪党・強剛名主が出現すると、1301(正安3)年の悪党たちによる狼藉に対し、興福寺は幕府の力を借りてようやく鎮める有様でした。 興福寺による大和支配が揺らぐ中、大和は鎌倉幕府の滅亡とそれに続く南北朝動乱の渦中に飲み

    南北朝の争乱・興福寺支配の解体と大和永享の乱~大和武士の興亡(2) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2023/05/19
    鎌倉末期から興福寺は一乗院・大乗院両門跡の私的な争いからその権威を失墜。紛争の調停機関を失った大和国では南北朝の争乱を通して衆徒・国民が興福寺から自立して抗争を繰り返す戦国の時代に突入しました。