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ブックマーク / yonezawakoji.com (246)

  • 豊前田遊郭(山口県下関市)の歴史|おいらんだ国酔夢譚|

    豊前田遊郭概論豊前田の歴史は江戸時代までにさかのぼります。江戸末期には細々とした船宿街で、ハイソな遊里稲荷町・裏町に対し下級の遊女がたむろする遊所でもありました。 そんな豊前田に一大転機が訪れたのは、明治34(1901)年の下関駅の開業。 ネットの情報では、豊前田遊郭が開業したのは駅が開業した明治34年と書いてるのもありますが、明治15年の『山口県統計書』にはすでに貸座敷指定地(遊郭)として豊前田の名前があります。それ以前に遊里として存在していたことは確か、「発展した」のが明治34年以降という見方と私は踏んでおきます。 当時の下関駅は今の駅とは位置が違っており、現在の位置になったのは関門トンネルが開通した昭和17(1942)年のこと、当時は門司駅(今の門司港駅)との連絡船との関係で、もっと海沿いにありました。 統計データから豊前田遊郭の変遷を見てみましょう。 豊前田遊郭は「下関一の大遊廓」

    豊前田遊郭(山口県下関市)の歴史|おいらんだ国酔夢譚|
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    yaneshin 2021/10/31
  • 近代建築これくしょんー小原写真館・平船精肉店など(岩手県盛岡市)

    先の戦争での空襲を受けていない都市は、明治時代から昭和初期の、戦前に建てられたいわゆる近代建築が多く残っています。 盛岡は空襲を受けた都市の一つではあるのですが、爆弾を落とされた場所が駅周辺と限定的だったために、市街地は特に被害もなく古い町並みが残っています。 それだけに現存する近代建築も多めですが、今回はその中でも見た者を釘付けにするような一つを。 小原写真館盛岡の古くからのショッピングスポットとして現在でも商店街がある肴町に、その建物はあります。 店名が書かれた飾りが途中で脱落していますが、「小原寫眞館」と読めます。 いつ建てられたかは不明ですが、おそらく昭和10年以降ではないかと推定できます。その理由は後述します。 盛岡の図書館に残っていた住宅地図によると、昭和37年(1962)に「白陽写真店」として掲載されています。「小原写真店」ではないのが不思議です。ただの推定ですが、元の「小原

    近代建築これくしょんー小原写真館・平船精肉店など(岩手県盛岡市)
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    yaneshin 2021/10/28
  • 南海の新聞電車と女給電車【南海電鉄歴史紀行】

    「女給」という響きには、どこか昭和を感じます。 この言葉が生まれたのは、昭和ではなく大正時代のようで、宇野浩二の『苦の世界』(1918‐21)には「いっそのことカフエエの女給にならうかしら」という文章があります。 それが全国区になったのは大正の終わりから。昭和に入り「カフェー」という新しく生まれた風俗産業と共に、「女給」も伝播したのでしょう。カフェーとは、横に「女給」がついてお酒を飲んで語らう場所、つまり今のキャバレーのようなものでした。 女給とくればカフェー。カフェーとくれば女給。彼女らは基無給、客からのチップだけで生活していました。チップイコール生活費、チップ欲しさにだんだんと過激なサービスをするようになり、次第に陰で売春行為もするようになったと言います。 そして昭和はじめの不景気による先が見えないドンヨリ感もあり、カフェーは「エロ・グロ・ナンセンス」の「エロ」を担う時代の寵児となり

    南海の新聞電車と女給電車【南海電鉄歴史紀行】
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    yaneshin 2021/10/21
    このような電車が南海にあったんですね。昭和初期らしいエピソードかなとはおもいました。
  • 福島一本杉遊郭(福島県福島市)|おいらんだ国酔夢譚|

    福島の遊郭史そもそも福島という町は、城下町と同時に奥州街道沿いの宿場町として栄えました。街道沿いにある北町(北裡)は旅籠が集まる通りとして賑わいをみせましたが、その中には飯盛女を抱えた遊女屋兼業もあり、大人の盛り場としての面もあったのは、他の宿場町と同様です。 近代に入って以降も状況は変わらず、遊郭・花街・宿屋が混在する形になっていました。明治12年(1879)の福島の貸座敷数は18軒、娼妓数は114人という記録が残っています1。 明治35年(1902)、町の中心にあった遊郭は、当時の福島町長の決断で郊外の一杉に移ることになりました。遊郭が一杉に移ったのは明治34年という資料もありますが、ここは郷土史に従います。 その時移った遊女屋は、渡利楼、湯野屋、花野屋、高木屋、丸井楼、大野屋、吉野屋、吾楼、常盤楼、えびす屋の10軒。えびす屋はすぐ廃業したそうなので、実質9軒といったところか。移

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    yaneshin 2021/10/16
  • 桂歌丸と言語文化

    2018年7月2日、落語の大家桂歌丸師匠が亡くなりました。 決して身体が強い方ではなかっのですが、まだまだ落語をやるという気概は充満していたので、東京オリンピックまでは持つだろう。そう思っていた矢先のニュースでした。 歌丸師匠といえば『笑点』。私も嫌なことがあった時は大笑いし、嫌なことをすべて忘れていたという意味では、大恩がある人でもあります。 が、それは仮の姿。当は落語という日の唯一無二の芸能の看板を背負った大御所。それだけに近頃のお笑いのやそれを見る視聴者、出演させるテレビ側の「低レベル化」に対し、厳しいことも述べていた方でした。 また、私にとっての歌丸師匠は、遊郭を知る最後の生き証人という一面もありました 歌丸師匠は横浜真金町の出身で、生涯そこから離れることはありませんでした。 真金町と言えば、横浜最大の遊郭があったところ。歌丸師匠の祖母は「真金町の三大ババア」と言われたほどの女

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    yaneshin 2021/10/16
    “「言葉というのはですね、その国の文化なんですよ」”←私も感銘を受けました。
  • 神戸駅近くで発見された昭和の遺物-『貯蓄報国』と戦争

    と何かピンとくるものがあるかもしれません。歴史がわかると「武運長久」でお察しですが、わからないとオリンピックの標語か?とボケ回答が来るかもしれません。 さて、この標語は一体何なのか。 「貯蓄報国」とは「貯金報国」は間違いで、正しくは「貯蓄報国」。書き主め、さては書き間違えたな。 といっても、意味は同じなので大目に見ておきます。 昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋での謎の発砲から始まった支那事変(日中戦争)は、同年12月の首都南京陥落でカタがつくかと思いきや、中国側も首都を漢口(現在の武漢の一部)に移し徹底抗戦の構えを見せ、長期化の様相を呈してきました。 戦争はタダではできません。当然お金がかかる。日軍も短期戦の目論見が外れ、「聖戦完徹」のために戦費が必要となってきました。 そのため、政府は国民に貯蓄を奨励(・・)します。昭和13年(1938)4月16日には大蔵省に「国民貯金

    神戸駅近くで発見された昭和の遺物-『貯蓄報国』と戦争
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    yaneshin 2021/10/16
    「歴史は繰り返す」にならなければ良いと思いますね。
  • 酒田新地遊郭(山形県酒田市)|おいらんだ国酔夢譚|

    山形県庄内地方は東北屈指の米どころとして有名ですが、その中心酒田は北前船の寄港地、そして最上川の河口にあり川沿いの名産が集まる集積地として、江戸から明治にかけ大いに栄えました。戦後の農地改革まで日一の地主だった間家も酒田にありました。 人が集まるところ遊里あり。酒田も当然その例外に漏れず、江戸時代から遊里が存在していました。酒田は北前船により京の文化と直結していたところでもあり、遊里も京風味で雅だったことでしょう。 前回の原ゴム工業所の記事で取り上げた「酒田甚句」をもう一度挙げます。 日和山 沖に飛島 朝日に白帆 月もうかるる最上川 船はどんどんえらい景気 今町 船場町 高野こやの浜 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん しゃん酒田はよい港繁昌じゃおまへんか (2番以降略) 『酒田甚句』歌詞にある酒田の地名「今町 船場町 高野の浜」、実はここが江戸時代~明治初期の色街。「酒田三遊処」と称され

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    yaneshin 2021/10/01
  • 原ゴム工業所(山形県酒田市)-酒田に建つ謎の近代建築【近代建築これくしょん】

    山形県北部、庄内平野の港町である酒田。 ここは江戸時代、上方から瀬戸内海を経由してやってきた北前船の主要寄港地で、関西とは縁がある地域でもあります。 関西から見ると、ヘタな外国よりも遠く感じる東北の一地方都市ですが、北前船に乗って上方文化がここへも流入していました。いわば関西と直結していたのです。見方を変えれば、酒田は「東北の京か大阪」とも言えるのではなかろうか。 その片鱗が、江戸時代の酒田の繁盛っぷりを歌った地元の民謡、「酒田甚句」に残されています。 酒田甚句日和山 沖に飛島 朝日に白帆 月もうかるる最上川 船はどんどんえらい景気 今町 船場町 高野(こや)の浜 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん しゃん酒田はよい港繁昌じゃおまへんか 海原や 仰ぐ鳥海 あの峰高し 間(あい)を流るる最上川 船はどんどんえらい繁昌 さすが酒田は大港 千石万石横付けだんよ ホンマに酒田はよい港 繁昌じゃおまへん

    原ゴム工業所(山形県酒田市)-酒田に建つ謎の近代建築【近代建築これくしょん】
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    yaneshin 2021/09/20
  • 下関稲荷町・裏町遊郭(山口県下関市)|おいらんだ国酔夢譚|

    下関と言えば、今から千年前に源氏と平氏が戦った「源平の戦い」のハイライト、「壇ノ浦の戦い」の地でもあります。 学校で習った通り、この戦いで一時の栄華を誇った平氏は正式に滅び、源氏の天下が確定したんやけど、平氏が連れてきた数多くの女官が戦いの後で残りました。 男が海の藻屑と化して残された女官たちは、貴族的生活をしていたために技能なんてものはなく、生きる糧のために「春を売る」こととなりました。下関は、そんな女たちの起源の地とも伝えられ、ここが「遊女発祥の地」と言う人もいます。 今回の稲荷・裏町遊郭は、そんな遊女たちをルーツに持つとされる遊里でした。 近代以降の遊郭の遊女は、公の娼婦ということで公式には「公娼」「娼妓」と言われていました。が、世間一般には女郎(じょろう)でした。 平安時代、高級の女官のことを上臈(じょうろう)と呼ばれていました。壇ノ浦で庇護者を失って浮浪者同然になった平家の高級女

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    yaneshin 2021/09/18
  • 下関新地遊郭(山口県下関市)|おいらんだ国酔夢譚|

    下関の遊郭たちぱくたそ様提供下関は、平安時代末期~鎌倉時代初期の源平合戦のエンディング、「壇ノ浦の戦い」の舞台でもあり、古くから陸の・海の交通の交差点として栄えました。 江戸時代には日海沿いの街を回って大阪へ至る「北前船」が通る船のターミナル、下関を通らないと瀬戸内海や太平洋に入ることはできず、ほとんどの船は下関で一休みとなります。 逆に、瀬戸内海から日海へ向かう時も下関を通ることになります。人がここに集まるのは必然です。言わば「日のボスポラス海峡」と言える所でもあります。ボスポラス海峡とは、トルコのイスタンブールにある、アジアとヨーロッパを分ける海峡のことね。 時代が変わり明治時代になっても、船はもちろん鉄道も山陽鉄道(現在の山陽線)が下関まで線路を伸ばしたことから、更に人・モノ・金が入ってくることになりました。 今でこそ関門海峡トンネルで鉄道がつながっていますが、開通までは東か

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    yaneshin 2021/09/04
  • 長谷川清-いぶし銀の海軍名提督

    旧帝国海軍軍人数多しといえども、歴史に名を残し誰でも知っている人となると、ほんの一握りとなります。誰でも知っているといえば、東郷平八郎や山五十六といったところでしょうか。 もちろん、海軍の軍人のほとんどは、地味ながら職務に忠実に励み、人知れず海軍を去ったり、あるいは戦死や殉職しています。 その中でも、東郷や山ほどの知名度もないものの、いぶし銀のように鈍く輝く名脇役的な人もいたことは確かです。日は、そんな海軍提督の話を。 なお、今回は姉妹ブログである「台湾史.jp」との自作自演コラボで、日の主役を二部構成にしていきたいと思います。 海軍軍人としての長谷川提督海軍軍人としても、山五十六のような知名度や派手さはないですが、上述したように豚骨スープの豚骨のような脇役として、海軍史の表舞台にひょっこり顔を出します。 長谷川清は、1883年(明治16)福井県に生まれました。 海軍軍人を目指し

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    yaneshin 2021/08/30
    正にいぶし銀ですね。興味深い人物伝をありがとうございました。
  • 終戦記念日の聖地巡礼-『時刻表昭和史』を訪ねて

    8月15日は、言わずと知れた終戦記念日です。 国際的には、「ポツダム宣言」を受け入れた8月14日、大元帥(天皇)陛下による戦闘中止命令が出た8月16日、そして降伏文書に調印した9月2日の方が重要。アメリカは9月2日を「終戦記念日」にしているし、世界史・国際法的には8月15日は別にどうでもいい日なのですが、日史的にはこの日が区切りとなっています。 それはさておき、8月15日は私の誕生日でもあります。終戦記念日生まれという、ある意味数奇な誕生日を生まれながらにして持った私が昭和史を探究するのは、何かの宿命なのかもしれません。 かくして人生四十数回目の誕生日を、コロナ前には予想だにしていなかった山形県で迎えたわけですが、76年前の同じ日を、同じ山形県で迎えたある人物がいました。 それが紀行作家の宮脇俊三(1926-2003)。 まだ鉄道マニア自体認知されていなかった戦前から乗り鉄に励み、編集者

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    yaneshin 2021/08/30
  • ヤングタウン-堺・泉北ニュータウンに咲いた青少年の町

    ヤングタウン…この言葉で連想するのは、関西では知らない人はいないだろうラジオ番組、通称「ヤンタン」でしょう。 1960年代後半から始まったこの番組は、当時売れに売れていた桂三枝(現:六代目桂文枝)をパーソナリティにしてから徐々に人気が上がり、そのテレビ版と言える『ヤングおー! おー!』と共に関西の看板のラジオ番組となりました。70年代に青春時代を過ごした現在の60代の方などは、鮮明に覚えているでしょう。 そんなヤングタウンが始まった同時期、番組名そのままの街の建設が大阪の南で始まろうとしていました。 今回は、かつて堺泉北の地にあったもう一つの「ヤングタウン」のお話を。 ヤングタウン-若者が集まる夢の街敗戦の焼け跡から立ち直った日が、いわゆる高度経済成長期に入ったのは昭和30年代後半のこと。経済の発展で労働力の需要が増大、地方から都市部への人の流入が多くなってきました。特に、「金の卵」など

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    yaneshin 2021/08/09
  • 双葉町遊郭(山形県鶴岡市)|おいらんだ国酔夢譚|

    山形県の北部、荘(庄)内地方に鶴岡というところがあります。江戸時代の北前船航路で栄えた酒田と並び、庄内地方の双翼の町として有名で、2000年以降に周囲の自治体を吸収しまくったせいか、日でも屈指の巨大な行政体となりました。Google mapで表示したくても、区域がデカすぎて今回の主役の地域が豆粒みたいになるので、今回は地図を貼るのをやめました。 鶴岡とくれば、古い関西人は南海ホークスの鶴岡一人を思い起こす人が多いと思いますが、その鶴岡と今回の鶴岡は、何の関係もありません。 ところで、鶴岡市とくれば、私がずっと不思議に思っていることがあります。 鶴岡出身の有名人は、政治家から芸術家、そして軍人など非常に幅広い。 知名度が全国区レベルの人を選抜しただけでも…歴史好きならぱっと思いつくのが石原莞爾。陸軍なら石原の他に服部卓四郎、海軍なら佐藤鉄太郎や大井篤、読み物好きなら藤沢周平、言論の保守派な

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    yaneshin 2021/07/28
  • 長野新地(大阪府河内長野市)|おいらんだ国酔夢譚|

    (出典:『大阪府統計書』) 数字だけで分析すると、「花街」にしてはこじんまりとしてる感じですが、確かに戦後赤線になった住吉や港新地などの芸妓数三ケタに比べると、河内長野は知る人ぞ知る奥座敷のような存在だったのかもしれません。 戦後の長野新地は、大阪府や大阪府警の資料によると「青線」に分類されています。 こっちは赤線である松島新地が発行していた『松島たより』にも、河内長野は青線に分類されており、昭和29年(1954)8月当時には、”28軒61人”と具体的な数字が表示されていました。この数字の信憑性は確かめようもありませんが、「同業者」が書いた資料なので数字に血が通っているかのような温かみがあります。つまりそれなりに信頼して良い数字だと。 歴史はこれくらいにして、まずは新地を歩いてみましょう。 長野新地跡を訪ねる長野新地への旅は、河内長野駅から始まります。駅のメインゲートは高野街道側の西口とな

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    yaneshin 2021/07/11
    あの河内長野の温泉の近くですか、温泉には子供の頃に行った記憶があります、当時は違う名前だったと思いますが。
  • ひかりとのぞみー朝鮮・満州を走った国際列車

    東海道・山陽新幹線を走る「のぞみ」と「ひかり」。東海道はすっかりのぞみ帝国、山陽も「さくら」の台頭で「ひかり」の存在感はどこへ行ってしまったのかという感がぬぐえない昨今ですが、まだまだ元気です、たぶん。 「ひかり」にはある一定の需要があります。それは外国人観光客。 外国人旅行者(&海外永住権を持つ日人)のための国際切符に、”Japan Rail Pass”があります。JR青春18きっぷを新幹線含む特急普通車乗り放題にしたような魔法のきっぷで、外国人観光客にいくら私鉄や公共地下鉄を勧めても頑なにJRにこだわるのは、実はこの切符のせい。 日人としては妬みたくなるような特権ぶりですが、これ、一つ重要な落とし穴があります。「のぞみ」「みずほ」には乗車不可なのです。何故かはわかりません、そもそも「乗るな」なのです…東北・北陸新幹線のグランクラスでさえグリーン車料金を払えば乗車可能なのに。 その

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    yaneshin 2021/07/07
    戦前に走っていた「ひかり」と「のぞみ」 いかに戦前の話であっても、内地と外地、外国を跨いで走った列車の話はもっと知られても良いとは思います。
  • 砂川遊園とミッキーマウス【阪和線歴史紀行】

    関西アーバンネットワークのエース的存在として活躍しているJR阪和線。元々は阪和電気鉄道として昭和4年(1929)に開通した私鉄なのは、拙ブログを見ていただいている方には周知の事実。 私鉄としては10年強と短い寿命の鉄道だったのですが、「超特急」という当時としては常識外れのスピード列車を走らせるなど、伝説の私鉄として鉄道史の世界に燦然と輝いています。 阪和電鉄は、ただのスピード狂の鉄道会社ではありませんでした。鉄道以外にも様々な事業に手を出していました。 関西の鉄道会社では常識だった住宅地経営(上野芝の向ヶ丘町や霞ヶ丘など)はもちろん、射撃場やゴルフ場まで経営していたそのマルチぶりに、そこまで手を広げて大丈夫なのか!?と冷や汗をかいてしまいます。 その一つに、大阪府南部の泉南地域(現在の泉南市)に作られた「砂川遊園」というものがあります。名前のとおりの遊園地で、200万年前の洪積期に形成され

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    yaneshin 2021/06/30
  • 別府の北部旅館街(行合町の私娼窟)|おいらんだ国酔夢譚|

    別府の遊郭 九州は大分県別府市。日、いや世界でも指折りの温泉都市です。 温泉郷は世界中に存在するものの、一つの都市に硫黄泉から単純泉、含鉄泉まで何種類ものお湯が愉しめるのは滅多にありません。戦前は世界のBeppu、世界中のクルーズ船が訪れ、海軍の連合艦隊は数ヶ月の猛訓練後の骨休めに別府に碇を下ろすのが毎年恒例でしたが、現在の知名度はどうなのでしょうか。こんな温泉都市、唯一無二だと思うのですがね。 そんな別府にも、当然のことながら遊郭が存在していました。それも、さすがは世界のスパワールド…ではなく温泉郷、一ヶ所ではなく町の至る所に存在していました。 そして遊郭だけではありません。『全国遊廓案内』などのオープン資料では1ヶ所しか掲載されておらず、内務省の内部資料も2ヶ所のみ。 まあそんなはずはなかろう…と思いながら資料をまさぐっていくと、やはりその隙間を縫うように私娼窟も存在していました。私

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    yaneshin 2021/06/27
  • 石巻の遊郭&私娼窟(宮城県石巻市)|遊郭・赤線跡をゆく|

    もう一の「足」がどこかはお察しですが、この発言は一兵卒ではなく当時は超エリートの中佐の言です。 海軍には、軍艦寄港時には艦長自ら舵を握るルールがありました。操舵が上手い艦長だとさっさと接岸させて乗員を陸に揚げる。遊郭の女は早い者勝ち、早く上陸した者がいい女をGET。それも艦長の腕次第。それができない不器量な艦長の艦は… 不沈艦としてその名を残す駆逐艦『雪風』を不沈艦たらしめた名艦長、寺内正道中佐の言葉です。さっさと部下を上陸させていい女にありつかせるのは、軍艦のモチベーション保持のために重要だったのです。 そんな海の男の特殊な(?)事情もあり、さすがの仙台藩も特例として石巻に遊郭設置を許可したのです。 江戸時代の石巻遊里は、石巻村、門脇村、湊村の3ヶ所にあったことは確かだそうですが、具体的な軒数・人数についてはよくわかっていません。ただ、かなり栄えていたとは伝えられています。 そして明治

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    yaneshin 2021/06/21
  • 名古屋駅に残る戦争遺産-畜光タイル

    JR東海の拠点である名古屋駅。 この駅に、不思議なものがあるのをご存じでしょうか。 7~8番線へ向かう階段。一見するとどこにでもある階段です。 これは当に名古屋駅の写真なのかと、痛くもない腹をまさぐられそうです。 この階段の左右の端に、「あるもの」があります。 これ。正方形の光るガラス板のようなものが!? 人がいないことをいいことに拡大撮影してみると… かなり古いものであることは確かですが、一体これは何なのか。 ネットの情報によると、これは「畜光タイル」というものだそうです。陶磁器の釉薬を塗る技術を応用し、磁器製タイル表面に畜光顔料を塗り、明るさを保つタイルだそうで、メーカーのHPを見ると、けっこう光っているなと感じます。 では、名古屋駅の階段になぜそんなものがあるのか。それには昭和史の重大イベント、戦争が絡んできます。 戦争中、敵国からの空襲に備え、灯火管制というものが全国に敷かれまし

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    yaneshin 2021/06/08
    フットライトは夜道を歩く時本当に便利ですね。灯火管制が敷かれていた戦時中なら尚更だったと思います。