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ブックマーク / yonezawakoji.com (246)

  • 大阪の遊郭と空襲-飛田は燃えているか|おいらんだ国酔夢譚|

    新町遊郭新町と言えば、規模こそ松島や飛田には及ばなかったものの、古さと格式にかけては東の横綱吉原に負けないほどの超老舗。西の張出横綱的な位置に君臨していました。 今も地下鉄四つ橋線の四ツ橋駅の北に「新町」の地名が存在していますが、そこの1~2丁目の場所にありました。 昭和17年(1942)の航空写真ではこうなっていますが、戦争が終わった後はどうなったでしょうか。 終戦から3年後の昭和23年(1948)の航空写真ですが、新町の名物でもあった演舞場建物のでこなど一部の建物を除いて、昭和20年3月の空襲でほぼ焼き尽くされました。松島と同じく「消失」でした。 堀江遊郭は、その新町の長堀川を隔てた向かいにあった遊里で、遊郭となっているものの昭和初期には芸妓が圧倒的多数を占める花街でした。 その堀江遊郭も、新町と同日に「消失」となり、焼け野原となっています。 同日の空襲で、現在の南海難波駅の北側から道

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    yaneshin 2021/06/04
  • 大阪・新今宮のホテルサンプラザに泊まってみた

    そこはかつて、最下層の人が住む「スラム」であった。 そこはかつて、公権力さえ立ち入れない「カオスの世界」だった。 そこは今でも、日一(?)DEEPな町である。 その名は釜ヶ崎。 そこを包む小便とも大便ともつかない独特の異臭は、たとえ目隠しされて耳を塞がれてもその「臭い」を鼻で感じると誰もが「キターーーー!」とわかる。 釜ヶ崎、そこは売春、麻薬、喧嘩、博打、アウトロー… 権力を拒絶する結界が張り巡らされた負の幻想郷。 …とシリアスに始めてみましたが、そんなのは昔の話。今は拍子抜けするくらいのただの下町臭い下町です。 それこそ昔は、母親に 「用事があっても近寄るな。用事がなければ尚更近寄るな」 と行くのを固く禁じられていた禁足の地でした。が、「行くな」と言われると余計行きたくなる厄介な性格ゆえ、大阪に帰ってくると常にここ界隈をねぐら(・・・)にしております。 母上様、わたくしは禁を破った不肖

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    yaneshin 2021/05/28
  • 【2023年11月20日更新】大阪の旅館『明楽』

    大阪市西成区山王…人によってはその地名を聞くだけでさぶいぼ(・・・・)(鳥肌)が立つ魔境。 …と昔はそうだったと聞いていますが、実際に行ってみると至ってふつうの大阪の下町の風景が広がる住宅地です。大丈夫、私は何度も足を踏み入れていますが、いまだに五体満足で生きています。 そんな山王の街角に、知る人ぞ知る旅館が建っていました。 旅館『明楽』。外観はずいぶんと年代ものの建物として、こういう建物が好きな大きなお友達の注目を集めていた建物です。 看板もしっかり「明楽」と。揮毫は「露石学人」と読めそうですが、有名な人かどうかはわかりません。 『明楽』を見た人間の脳裏に印象づけるものは、この特徴的な丸窓。 丸窓は大正時代末期から昭和初期にかけて大流行したもので、建物にアクセントをつけるには充分すぎるほどの個性が加わるため、かなりの建物に採用されました。『明楽』が少なくても昭和初期築と推測可能な間接的根

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    yaneshin 2021/05/26
  • 阪和線山中渓駅の怪【阪和線歴史紀行】

    大阪と和歌山を結ぶJRの阪和線。天王寺駅を出発して大阪府側の最後の駅に、山中渓という駅があります。 駅前には何もないことはなく、人家も点在しているものの、大阪府というカテゴリーの中ではかなりの秘境駅の部類となる場所に存在しています。 駅舎は昭和5年(1930)に開業した当時の様相を残しています。阪和電鉄らしい三角屋根などの特徴はないものの、どこか老兵のような雰囲気を醸し出しています。 こんな山奥の駅なので、1日平均乗降者数は阪和線どころか府内JRの駅の中でも最下位。しかし、大阪市内のあの駅よりは多いんですけどね。 なお、現在駅舎は工事中で新駅舎が作られるらしく、阪和線の歴史を見つめてきた駅舎が見られるのもあとわずかとなっています。 山中渓駅の次の駅はもう和歌山県。和泉山脈のトンネルを抜けると、そこは雪国…ではなく紀の国和歌山です。 ここは桜の名所(花見スポット)として大阪では知らない人はい

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    yaneshin 2021/05/23
    興味深く読ませて頂きました。当初2面4線だった理由が気になりますね。貨物線のため、あるいは旅客列車退避のために設けられたのかななどと想像は膨らみます。
  • 稲永遊郭(名古屋市港区)|遊郭・赤線跡をゆく|

    稲永遊郭の歴史名古屋には、明治前にもいくつか遊里があったのですが、その一つに熱田遊郭がありました。名前のとおり、熱田神宮近くにあった遊里です。 こちらは文明開化以前からあった古い色街でしたが、明治時代に入り移転の話が持ち上がりました。 明治42年3月、愛知県は という布告を発します。街の真ん中、それも熱田神宮という聖域の横に遊里があるなんてけしからんというのがその建前です。江戸時代まではおおっぴらに営業できたのに、明治政府になってからダメになったのは、神道を穢れのない「国家神道」として神聖視化した政治的な処理の一端かと思ったりします。 そのまますんなり移転すれば良かったのですが、人間欲というものが絡むとどす黒い疑獄に発展します。 稲永の大地主である第十六銀行頭取渡辺某は、この移転をきっかけに一儲けを企みます。当時の愛知県知事や名古屋市長に、遊郭の移転が決まれば計画地や周囲の土地を格安で売り

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    yaneshin 2021/05/15
  • アニメの聖地にも!南海羽衣駅の伝説の踏切【南海電鉄歴史紀行】

    南海線の高石市の部分、羽衣駅~高石駅間が、2021年5月22日より完全に高架化されます。なぜ「完全」かというと、下り線がいつの間にか、もとい既に高架化されているから。今月は上り線も高架化され、これにて高石市部分の高架化は完成となります。 それによって、同区間の踏切が全廃することになりますが、南海の伝説を創ったある踏切も消えゆくこととなります。 (画像提供:鉄道プレス様)羽衣駅の北側にあるこの踏切も同様、5月21日限りでその役目を終えることとなります。 田辺聖子の小説をベースにしたアニメ『ジョゼと虎と魚たち』(略称『ジョゼ虎』)の一シーンにも高架工事中のこの踏切が描かれ、アニメ聖地となり巡礼者が絶えなかったんだとか。 しかし、面白いところがアニメの聖地になるもんやな〜。 だが、今回はそんな話ではありません。 たかが踏切されど踏切ですが、この踏切には鉄道会社どうしの因縁とそれにまつわる「戦争

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    yaneshin 2021/05/12
  • 阿部定と飛田新地の「御園楼」

    阿部定と飛田新地大正時代に颯爽と誕生した飛田新地。「現代の遊郭」として現在も健在な遊里の一つですが、元号が大正から昭和に変わった1927年頃、その飛田に流ちょうな東京の下町言葉を話す一人の女が流れてきます。 彼女は当時の飛田で一流妓楼の筆頭とされている「御園楼」で、「園丸」という源氏名で働くことになります。 (Wikipediaより) 彼女の名は阿部定。かの阿部定事件人です。当時22歳。 彼女の前借金は当時の2,800円と記録にありますが、「飛田遊廓の沿革」によると阿部定とほぼ同時期の飛田遊廓の遊女の平均前借金は約1,500円、最高は「巴里」にいたという”巴弥”の4,800円。阿部定の前借金は平均の倍近く、遊女としては「上玉」だったことが伺えます。 彼女は、飛田時代のことをこう書いています。少し長いですが引用します。 「御園楼」は、当時大阪で一流でした。私も売れて※三枚と下りませんで

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    yaneshin 2021/05/09
    御園楼の跡地の写真を見て、阪神高速松原線が飛田新地の真ん中を通っていることを今さらながら知りました。話は全然違いますが。
  • 布施の寿三郎横町と愛染小路と…(大阪府東大阪市)|おいらんだ国酔夢譚|

    前回は、布施に7年だけ存在した赤線、「布施新地」を取り上げました。 来はこれで終わりのはずだったのですが、布施は私の予想を超えて深かった。 今回は、布施新地の記事では書けなかった布施のもう一つの顔を… 寿三郎横町と愛染小路布施には、一説によると赤だけではなく、青線もあったと伝えられています。売春防止法により布施新地が消えた後も、ここ界隈ではヤミ売春行為が行われていた…そんな話は様々な方向から小耳には挟んでいます。 その舞台が、駅前にあった小道でした。大人が一人すれ違うのが精一杯の細い道の両脇に「飲み屋」がずらりと並び、地元の人の話では小路の前に椅子に座った女が手招きして男を誘う…それが平成の初め、バブル崩壊頃までの布施の風景の一つだったと。 「飲み屋」で酒を傾け理性がなくなる寸前までいったところで、 「どう?」 などと耳元で囁(ささ)かれ…男もまんざらどころか「それ」目的で来ているため、

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    yaneshin 2021/05/09
    2017年の火災は覚えています。近鉄奈良線からも惨状が見れましたしね。まあ、布施駅前の繁華街は色んな意味で何でもありですね。
  • 布施新地(大阪府東大阪市)|おいらんだ国酔夢譚|

    戦後の大阪には、「赤線」と呼ばれる売春窟が10カ所近くも存在していました。 大阪の赤線には大きく分けて2種類に分かれます。 一つは戦前の遊郭がそのままスライドしたもの。戦前は日でもトップクラスの規模だった松島遊郭や飛田遊郭、堺や貝塚、そして北河内の枚方があります。花街という建前ながら「実質遊郭」だった今里新地や港新地もここに分類されます。 もう一つは、戦後のどさくさに誕生した新興売春窟。遊郭の貸座敷経営者が空襲で焼け出され、別の場所で新地を形成するパターンが基で、東京では「鳩の街」が典型的なモデルケースです。ところが、大阪ではこのタイプが案外少ない。 今回は、後者のレアケース、布施新地のお話。 布施新地-たった7年しかなかった短命の特飲街布施は大阪市の東側、中小企業の街で有名な東大阪市にある街の一つです。昭和42年(1967)までは布施市として一つの市を形成しており、現在でも東大阪市の

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    yaneshin 2021/05/05
    このような場所に新地があったとは初めて知りました。さすがに今里からは近過ぎですね。
  • 南海の激レア電車、白線急行を見に行く

    現存する日最古の私鉄、南海電鉄。 和歌山方面や関西空港へのアクセスラインでもある線と、高野山へのアクセスをほぼ独占している高野線を二柱とした大手私鉄です。 昭和の時代には野球チームを所有していたりもしていましたが、現在は大手私鉄の割には地味な存在と思います。 が、経営は手堅い。コロナで主要鉄道会社が軒並み経営赤字の中、なんとガリバーJRを含めた大手鉄道会社唯一の経営黒字を達成しています。

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    yaneshin 2021/04/29
    かつての高野線沿線民としては、(南海)本線の「普通」と「白線急行」、「自由席特急」は子供心に珍しさをずっと感じてました。
  • 福原遊郭と外国人遊客 |おいらんだ国酔夢譚|

    遊里史の調査のため、統計書を読む機会が多数あります。 統計書、それはただ読むだけでは何の面白みもない無機質な数字の海。目的なしで読むと、こんな資料の何がどう面白いのか全くわけわかめな書物です。 が、ある目的を持ちながら読むとあら不思議。その数字の行間、いや「数間」か、を読み取ると、他の人には見えなかった何かが見えてくる「魔法の書」でもあります。 戦前の統計書には、鉄道などの交通機関の数字の他に、遊郭の数字も記載されています。基項目はどの道府県も同じなのですが、所々に土地柄を思わせる項目があったりします。兵庫県の統計書は、さすがは国際都市神戸を抱える土地柄か、外国人に関する項目が多いのが特徴です。 兵庫県統計書の大きな個性は、遊郭の項目に外国人が記載されていること。 他の統計書にはない大きな情報でもあります。 今回は、そこに焦点を当ててみようかと思います。 福原遊郭略史まずは、福原遊郭の歴

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    yaneshin 2021/04/27
  • 天王寺駅大阪環状線ホーム脇に残る謎の建造物【阪和線歴史紀行】

    このブログはそもそもはてなブログでアップしたものですが、掲載当時は大変な反響を呼び、これを通して拙ブログを知った方も多いと思います。 現在でも、書き主にとっても書き甲斐があった記事のトップ3に入っています。しかし、そういう記事に限って長期的なアクセス数にはあまり貢献しておらず、作者の熱意と実PVが一致しないというのが頭痛の種です。これもブログあるあるなのか。 前後編でたいがいのことは書いたつもりだったのですが、実は書き残した残りかす的な番外編もいくつか存在していたりします。 解決できなかったペンディング事項も存在するのですが、一つ自己解決した案件があります。今回は、軽くそれを紹介したいと思います。 天王寺駅に残る謎の階段天王寺駅11番線ホーム。 今年で開業60周年を迎える大阪環状線の、内回りのオレンジの電車が数分おきにひっきりなしに発着する、天王寺駅一忙しいホームです。 そんなホームの、寺

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    yaneshin 2021/04/18
    かつては省線、南海、阪和の別々の路線が一か所に集結していたわけですしね。まだまだ面白い発見は出来そうですね。
  • 大阪市立大学秘史 その2-商科大学から市民大学へ

    大阪に大学の数は星の数ほど…でもないですが、それでも数えるのも面倒くさいほどの数が存在しています。 その中でも、市内南部の杉町に君臨する大阪市立大学の存在感は、やはり大きい。来年、大阪府立大学と合併し『大阪公立大学』と名を改め、数年後には理学部と経済系学部以外は杉町キャンパスからも離る予定になっています。 今年は大阪市立大学が大阪市立大学である最後の年でもあります。そういう理由ではありませんが、大阪市立大学はどんな経緯で現在の形になったのか、たどっていきましょう。 大阪市立大学の歴史商業の都大阪には、江戸時代から町人のための学校が数多く開かれていました。有名どころは福沢諭吉などが在籍していた『適塾』ですが、現在なら理系全振りの教養学部か、医学部の教養課程(って今でもあるのかな?)のようなところでした。 また、裕福な商人が金を出し合い、授業料は無料という塾も多数ありました。 そこで学ぶも

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    yaneshin 2021/04/11
    市大(イチダイ)こと大阪市立大学についての詳細な記事。烏ヶ辻にキャンパスがあったことは初耳でした。
  • 宇都宮亀廓&中河原の赤線|おいらんだ国酔夢譚|

    宇都宮と聞いてまず思いつくのが。 …おっと間違えた。 やっぱ餃子でしょ。 宇都宮がいつから「餃子の街」になったかは不明ですが、駅を降りるとそこは餃子屋だったほどの餃子ラッシュは、餃子で町おこしをして成功した矜持を感じさせます。こんな街、餃子の中国にもないぞ。 宇都宮は、日光街道と奥州街道の要衝、そして日光東照宮のお膝元として江戸時代以降重要視され、それだけに徳川家康の腹心多正信の息子、正純が城主として治めることになりました。歴史、特に江戸時代が好きな人は、宇都宮とくれば餃子ではなく「釣天井事件」を想起する人もいるでしょう。 これにより多正純は改易となり、その後は譜代大名の持ち回りで治める町になりましたが、彼が築いたまちづくりが現在の宇都宮市の基礎になっています。 今回は、そんな自他共に認める餃子之国、宇都宮にあった遊郭のお話。 宇都宮の遊郭史近世宇都宮の歴史は、時間がなく調べること

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    yaneshin 2021/04/08
    宇都宮で餃子が広まったのは宇都宮にあった師団が満州に長期間行っていて、除隊して帰郷した兵士たちが広めた説があります。私の亡き祖父も満州にいた時に餃子作りを覚えたので、印象的な食べ物だったのでしょう。
  • 大阪市立大学秘史-キャンプ・サカイと杉本町駅の謎の線路【阪和線歴史紀行】

    町駅から伸びる謎の線路まずは、ある航空写真を見てみましょう。 昭和23年(1948)、まだ市大が旧制大阪商科大学だった頃の航空写真です。70年前の写真なので、大学の周囲にほとんど何もない以外は、大学の輪郭を含めて今と変わっていません。 しかし、どこかしらおかしいところもあります。 杉町駅の横に、線路が見えているのがわかるでしょうか。 ある人はこう思うでしょう。 私が小さい頃は、ここから貨物列車が毎日走っていました。昭和50年代後半だったと思いますが、大和川を隔てた浅香という駅に何故か1日1の貨物列車の通過時間が書いていて、駅近くにあった祖母の家に行った時は、その貨物列車を見に行っていました。うろ覚えですが、午後4時前後だった記憶があります。 今はその阪和貨物線も廃止され、レールも剥がされ写真のような長細い荒れ地と化していますが、これではないかと。確かに路線的には似ています。が、阪和

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    yaneshin 2021/03/27
    進駐軍通達三箇条を読んで、一瞬、江戸時代の高札を想像してしまいました。
  • 池田新地(大阪府池田市)|遊郭・赤線跡をゆく|

    (出典:『大阪府統計書』) 数字だけの規模としては小さい方で、市内にあった同じ花街の南陽新地や曾根崎新地はもちろん、泉州の岸和田花街をも下回ります。 その中でも、昭和11年(1936)だけ、遊客数と売上がなぜか爆上がりしているのですが、理由はわかりません。 そんな池田花街ですが、戦争による贅沢や享楽が締め付けられ、ついに昭和18年(1943)には法律でおおっぴらに営業が不可能となりました。 それと入れ違いなのか、大阪府の資料には陰で売春行為を行う小料理屋があったと書かれています。それと花街の関係はわかりません。が、この売春行為を行う小料理屋が、今回の主役「池田新地」の母体と推定できます。 赤線の成立、そして廃廓へそして終戦直前から戦後にかけ、戦争で焼け出された大阪他の遊郭の業者が若干数池田に移ったようで、戦争中から存在した在来の小料理屋と共に「池田新地」を形成しました。 そしてそれがのちの

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    yaneshin 2021/03/24
  • 遠野遊郭(岩手県遠野市)|おいらんだ国酔夢譚|

    岩手県の遠野。遠野と聞くと、柳田国男の『遠野物語』でお馴染みの民俗学・民話の故郷をイメージする人が多いかもしれません。また、「河童」や「ざしきわらし」などの妖怪をイメージする人もいると思います。 「遠野」の名は、アイヌ語の「トーヌップ」が由来です。直訳すると「湖の丘」。「日の原風景」と称される遠野ですが、「湖の丘」には日を越えて北欧のゲルマン伝説の香りが漂います。『遠野物語』にも、 「遠野郷の地大昔はすべて一円の湖なりしに、其水猿が石川となりて人界に流れ出しより、自然にかくの如き邑ゆう落をなせしなり」 とあり、自然地理学・地質学的にも数万年前には湖だったことは確定とのことです。 今回は、民俗学や民話好きにとっては聖地とも言える遠野の遊郭のお話。 遠野の遊郭そもそも遠野は江戸時代、遠野南部藩15,000石の城下町として隆盛を極めていました。 言っちゃあ悪いが、鉄道がある現在でも行くのが一

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    yaneshin 2021/03/20
  • 龍神駅-堺の玄関駅の栄枯盛衰【南海電鉄歴史紀行】

    大阪市と南部の河内・泉州を結ぶ南海電鉄。南海は大きく分けて線と高野線に分かれますが、二つともある街を通ります。それが堺。 線は堺、そして高野線は堺東駅が堺市の中心駅ですが、地元に疎い人は名前から線の堺の方が栄えていると思いがちです。 が、実際に栄えているのは堺東の方。市役所も堺東駅前にあり、百貨店である高島屋も堺東。線の堺の方は、特急が停まるなど中心駅としての体裁を整えているものの、どこか場末の…という感が否めません。あくまで堺東と比べたらですけどね。 そんな線側には、かつて栄光の時代がありました。海浜リゾートを抱え、特に夏には黒山の人だかりで身動きができなかった時代が。 しかし、それは今の堺駅ではありません。「もう一つの堺駅」があったのです。それが、今回の主役である龍神駅でした。 龍神駅-その長くも短き生涯 堺市の臨海沿いに位置する大浜公園は、現在は海が埋め立てられ「やや陸地」

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    yaneshin 2021/03/13
    旧堺駅の建物が懐かしいですね。子供の頃、岸和田のだんじり見物の後、堺駅から直接自宅によく帰っていたので印象に残っています。途中、堺市民会館近くの天下一でラーメンを食べるのが楽しみでした。
  • 【前編】松島新地(大阪市西区)|おいらんだ国酔夢譚|

    大阪の遊郭と聞いて、真っ先に思い浮かべる場所が二つあります。それが松島と飛田。 大阪、いや近代日に君臨した遊郭界の木星と土星的存在であるこの二廓は、その巨大な重力によって大阪歴史にも深く影響した巨大惑星であります。 貸座敷業、いわゆる遊女屋というのは、周囲から賤業と冷たい目で見られたため当事者にとっては黒歴史でもあります。全員ではないですが、過去の歴史を極力隠そうとします。私もカメラを向けたどころか、元妓楼を凝視しただけで怒鳴られた回数は数知れず。 滋賀県の某遊郭のように、遊里としての歴史を閉じる際に歴史の一部である文書を火の中に入れ、遊里であったことを永遠に消し去ろうとした所さえありました。図書館でその記述を見て、臭いものには蓋をするその行為に怒りを覚えたものです。 それとは逆に、遊里であった歴史を当事者の手でまとめ、文字として残そうと「歴史書」を作成したところがありました。それが今

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    yaneshin 2021/03/07
  • 福田遊郭(山形県米沢市)|おいらんだ国酔夢譚|

    山形県米沢市。山形県南部にあるこの町は、伊達家によって町が形成され、戦国時代に伊達晴宗がここを拠地にしました。晴宗の孫である伊達政宗も米沢で生まれ、ここをホームタウンに戦国の世を動き回りました。 江戸時代に入り上杉景勝がここに転封されて以降、米沢は上杉氏の領地として明治時代まで続きました。特に「成せば成る」の9代目藩主上杉鷹山(治憲)が有名なところです。 そういう意味では、戦国時代ファンにとっては聖地に等しい胸熱の街ではないでしょうか。 今回は、そんな米沢にあった遊郭の話です。 米沢の遊里史上杉景勝が新米沢藩主として転封されてきた頃には、すでに「遊女屋」が存在しており、「揚屋三軒、遊女十三人」と記録にあります1。また、温泉地である赤湯にも、「湯女」と呼ばれた今風に言えばソープ嬢のような私娼がいたそうです。やはり温泉地と遊女は切っても切れないようです。 そして寛政7年(1795)11月、藩

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    yaneshin 2021/02/21