一人で泊まったラブホテル、もてない大女から持ちかけられた共闘話、スポーツと性欲の関係など、社会風俗から専門の英文学まで、幅広い知見を駆使して縦横に語りつくす過激なエッセイ集。 【生活編】 私は映画音痴である/石川五右衛門の謎/「八犬伝」とわたし/映画の間違いあれこれ/三鷹の怪しいマンションにて/怪獣映画が好きです/ある面接の風景/同情できない貧乏話/東大美女の謎 他 【政治社会編】 野田聖子の手前勝手な夫婦別姓論/シングルマザー幻想/野球ファンの謎/「近代競技」としての大相撲/「ドライブ」廃絶運動 他 【ことば編】 「全集」の日本独自の誤用/「全然〜ない」の迷信/「の」と「な」をめぐって/「愛」という言葉/「十人並み」の謎/セフレの謎/「くん」と「さん」の謎/一代年寄を「襲名」するな/「暗殺」とは何か/用語規制 他 【文藝編】 注釈の愉しみ/アンデルセンの同性愛/横山光輝『三国志』の原作/
今日は久々にだらだら過ごせる休日。てなわけで、テレビと読書三昧。 今日読んだのは、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版、2005)と、荷宮和子『バリバリのハト派』(晶文社、2004、こっちは拾い読み)。この2冊、同時に読んだら北田君のほうはもしかしたら嫌がるかもしれないけど(確か彼、ブログで荷宮さんをちょっぴり批判していた記憶が…。僕も彼女の「くびれの世代」という世代論は却下だが)。まあ、ともに、サブカルチャーとナショナリズムの関係に着目した論考である(僕は、ナショナリズムが「サブカルチャー」化しているのが昨今だと思う)。そして、教えられること、考えさせられることが多かった。以下はその備忘録。 まず、北田君の本は、前に読んだ大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』、大澤真幸の一連のオウム論(「第三の審級」云々というやつです。『虚構の時代の果て』ちくま新書、とか)の系譜に位置付け
すっごい下らないことだが。 以前勉強会で、どんなに深遠で難解な本のタイトルでも英語にすると簡単に見えるという話になったことがある。実際にデリダの『エクチュールと差異』はWriting and Differenceだったりする。というわけで、何でも大阪弁に翻訳してみると非常に気楽な感じになるのに気づいた。 例えば デリダ『エクリチュールと差異』>『書くこととちゃうねん』 クンデラ『存在の耐えられない軽さ』>『おるっちゅうことのもう我慢ならん軽さ』 キェルケゴール『死に至る病』>『往生するまでのダルさ』 マルクス『資本論』>『あきんどとは』 ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』>『ツァラトゥストラはこう言いはりました』 西田幾多郎『善の研究』>『善いってなんぼ?』 みたいな感じ。もちろん俺はネイティヴな大阪弁を操れないから適当だが。
草思社支援、文芸社に決定 出版の独自性尊重も合意 2008年04月17日 民事再生法の適用を1月に申請した中堅出版社の草思社(東京都文京区、木谷東男社長)は17日、再建に向けての支援企業が自費出版大手の文芸社(同新宿区、瓜谷綱延社長)に決まったと発表した。草思社は文芸社の100%子会社になるが、社名の変更はなく、既刊書はすべて従来通り販売する。出版活動の独自性を尊重することにも合意したという。22日に再生計画を東京地裁に提出し、順調なら7月ごろに新体制となる見込みだ。 草思社は「声に出して読みたい日本語」などのベストセラーで知られる。負債総額は22億4789万円。
海外の長編小説ベスト10 越川芳明(アメリカ文学・ボーダー文化論) どんなに狭隘な世界に住んでいても、私たちの生活はグローバルな世界経済、国際政治と切り離されてはいない。 自分だけに通用する常識やイデオロギーを「他者」に投影するような素朴な語り口では、そうした複層的な世界を表現できないばかりか、害悪でさえある。 小説のよしあしは、そうした複雑きわまりない世界や語り手の自意識をどのように処理するかにかかっているが、それを大まじめにやりすぎると、一般読者を遠ざける難解なものになってしまう。 しかし、ここにあげた小説は、複雑な世界と歴史を扱いながらも、物語としてリーダブルなものばかり。すぐれたポストモダン小説の模範だ。 1コーマック・マッカーシー(黒原敏行訳)『血と暴力の国』(扶桑社文庫) 2ブルース・チャトウィン(芹沢真理子訳)『ソングライン』(めるくまーる) 3オルハン・パムク(和久井路子訳
年収300万円のサラリーマンでも1年で120万円貯まる裏ワザ 作者: お金の裏ワザ研究会,森永卓郎出版社/メーカー: アスコム発売日: 2007/12/01メディア: 単行本 クリック: 62回この商品を含むブログ (2件) を見る タイトルだけ見てナメてんのか!と思った一冊。持ってる人がいたので感想を聞かずに借りてみた。ツッコミどころ多過ぎで超ワロタ。 目次 裏ワザ1:駐車料金で33,600円貯まる! 不要な状況を創作(自動コレクトコールで1,200円貯まる!) 手間がかかる(お釣りの出る商品券で146,000円貯まる!) 違法もしくは時代錯誤(自動車税で12,750円貯まる!) 得と損が同時発生(献血で2,880円貯まる!) どうみてもバイト(墓参り代行で!治験モニターで!ミステリーショッパーで!) まとめ 関連 裏ワザ1:駐車料金で33,600円貯まる! 1,200円-500円=70
本日の夕方、ようやく原稿が終わりました。『サルまん』のほうは、おととい終わっていたんですけど、もうひとつ20枚ばかしの原稿が残ってしまったのです。ある単行本に掲載する文章なんですが、これから編集者の意見を聞いて修正作業に入る可能性もあります。 今回の『サルまん』は、俺の分担がいつもの倍くらいあったんですよ。今回は、ちょっとまた読者のみなさんのご意見を伺いたいと思ってますので、25日になったらここと公式ブログで発表したいと思います。いや、こちらが用意したブツ(複数)に対して、読者の人気投票をネットでやろうと思っているんですけどね。投票システムのCGIって結構あるでしょう。それ使ってブログでやろうかなと。それで今、フリーCGIでいいのがないか探しているところです。 それにしても今回ばかりは締め切りに苦しみました。いやまあ、いっつも苦しんでいるといえばそうなんですけど。締め切りに間に合いそうにな
出版界、唯一の業界紙「新文化」に1月期の出版・販売データが載っている。見出しには「2ヵ月連続のマイナス・書籍・雑誌とも減少」とあって寂しい限りだ。 「2008年1月期の書籍・雑誌推定販売金額(本体価格)は、前年同月比4.2%減となり、2ヵ月連続のマイナスとなった。 内訳は、書籍は同3.2%減、雑誌も5.0%減で、両部門とも落ち込み幅が大きかった。」 出版界はどうなっていくのだろうか。下北沢だけでも6軒もあった書店は、今や2軒だけになってしまっている。スーパー「ピーコック」の3階にある三省堂書店も、何時行ってもお客はパラパラだ。 本を読む人は少なくなるばかりなのだろうか。ところがなんと古本屋が増えているのだ。 古本屋のご主人というと、暗くてへんくつな年配の人を想像するが、若い人が古本屋さんを開店するのには驚きだ。 「ザ・スズナリ」の1階の角にある古本屋「ビ・ビ・ビ」は、ぼくのブログで紹介した
ひとつの目的、ひとつの想い、たったひとつの“なにか”のために結束する――。チーム男子の魅力とドラマを徹底考察!どうしてこんなに愛しいの?このときめきの正体は!?
巽 今回の『先生とわたし』は由良君美という知の巨人の伝記という体裁をとっていますね。由良先生の凄さはおいおい語るとして、本書の意外に手の込んだ構造から話を始めましょう。まず思い浮かぶのは、夏目漱石の『こころ』とゲーテの『ファウスト』。そして四方田さんの自伝『ハイスクール1968』(新潮社刊)。 四方田 はい。 巽 『ハイスクール1968』で、学園紛争を経て、大学というものに絶望した高校生の四方田少年が、『先生とわたし』では東大に入って、由良先生の授業を受け、意外に大学もやるじゃないかと認識を新たにしていくところに、一種のナラトロジカルなひねりがあるわけですよね。ここには由良君美という人をおいては存在し得なかった四方田犬彦がいるわけで、だから『先生とわたし』は伝記の体裁をとった自伝でもあり、その意味では二部作の後編といえる。 さらに凝っているのは、本書の後半でジョージ・スタイナーと山折
竹内芳郎『サルトル哲学序説』という本があります。 サルトル哲学序説 (1972年) (筑摩叢書) 作者: 竹内芳郎出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 1972メディア: ? クリック: 9回この商品を含むブログ (3件) を見るこの本は、1956年に河出書房から出版され、河出倒産にともなって絶版になったものが、1966年に盛田書店から再刊、その盛田書店も倒産になって、最終的に、1972年に筑摩叢書から再刊されました。ところが、その筑摩も倒産してしまったわけで……なんとも。 これは、日本人によるサルトル本の中で永野潤の『図解雑学サルトル』の次にすばらしい本です。 サルトルはかつてブームだったと言われますが、哲学者による本格的なサルトル論というのは、かつては(すくなくとも入手しやすいものは)ほとんどこの本ぐらいしかなかったと思います。私も卒論・修論を書くときにはずいぶんと一生懸命読ませていた
ウェブで絶賛(?)のこの本を読んだよ。しかし新書700円って高くないか。1日以内で読める本に500円以上払う気にならんのですよ、最近は。 自分探しが止まらない (ソフトバンク新書 64) 速水 健朗 正直言わせてもらせるえると、前のタイアップのほうがよかったなと思う。資料的な価値があるとはいえ、前作のタイアップの歌謡曲の歴史と違って、「自分探し」というカテゴライズは非常に恣意的であるからだ。さらに著者自身の屈折した思いが表出していて、なんというかすっきりしない印象(まあある程度実存的な問題に関わるから仕方ないけど)。 ともかく何よりの問題点は「自分探し」なる観念が反証不可能であることだ。自分探しをしていないと胸を張って言える人などいるのだろうか?というか、自分探しをしていないっていう状態がわからない。社会の一部の生産ラインで淡々と働くことなのか、家庭を持って幸せに暮らすことなのか。その辺が
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