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解釈に関するyuzuyu_koroのブックマーク (16)

  • ブログにおけるコメントの意味 - 白い戯言

    ブログを始めてる人なら大抵は「コメント」という言葉を見たことがあると思われます。 しかしコメントをすることによってどのような効果が現れるかを考えたことがありますでしょうか? 私はコメントに対してそこまで深くは考えたことがなかったので、 自分を見直すことも兼ねて考察したいと思う。 まず他のブログにコメントするとどうなるか。 一応実体験を元に書きますが、コメントされるとブログを書いてる身としては非常に嬉しいと感じます。 何故かというと、何らかの共感を得た、もしくは自分と似たような体験等をしたから気になってコメントしたと思われます。 つまりコミュニケーションをとるということに繋がります。 これを続けていくうちに親しくなったり話しの弾みが大きくなっていくと考えます。 コメントとは言えないですが、2ch掲示板も似たようなことじゃないかなと思います。 あれも誰かがスレッドを立ててそれに反応する。一緒

    ブログにおけるコメントの意味 - 白い戯言
  • 一部から全体へ - ただウェブに駄文を綴るのみ

    リアルのことでも言えることではあるのですが,ここは敢えてWeb上のお話ということで. あるサービス会社が提供しているサイトサービスやあるテーマを取り上げたサイトなどで,一部のユーザのマナーの悪さや悪質さによって,一部であったはずが全体が悪いかのような印象を得ることがあります. 一番いい例としては,2ちゃんねるの存在でしょうか. 僕は,ネットを始めてから3,4年くらいは2ちゃんねるという存在が,「荒らし」「中傷行為」が全体で当たり前のように感じていた時期がありました.だけど,それはごく一部のこと.だが,一度植え付けられたイメージはなかなか払拭できず,分かっていても受け入れられなかったりもしました. 一部が悪いだけだから,自分は関係ない.そう思うのは当たり前ですが,かといって関係ないから自分は違うと言っても,悪いイメージの枠に入れられ,それを否定することは容易ではありません.自分は違うから関係

    一部から全体へ - ただウェブに駄文を綴るのみ
  • 無知の知を知れ、アピトーユ・ド・ホルス・リクッビ、隗より始めよ - 吹風日記

    みなさんは、ソクラテスの「無知の知」についてご存知でしょうか。「知らないということを知っている」というアレです。え? 知ってるに決まってる? それは失礼いたしました。今日は、「無知の知」について考えます。 ソクラテスはかつて、こんなことを言った。世の識者たちは、自分がだいじなことを知らないということに気づいていない。つまり、わかっていないということを忘れてしまっている。それに対して、自分は、知らないということを知っている。つまり、わかっていないということを忘れていない。この点で、世の識者たちよりも自分のほうがものごとがよくわかっている、と言えるだろう、と。 「知らないということを知っている」ことを「無知の知」という。 永井均『〈子ども〉のための哲学』より さて、いきましょう。「無知の知」についてです。 「無知の知」というのは実に面白い表現です。「自分が知らないということを知っている」。こう

    無知の知を知れ、アピトーユ・ド・ホルス・リクッビ、隗より始めよ - 吹風日記
  • web上のやりとり、使う言葉、伝わる言葉 - リツエアクベバ

    「読み取れない読者が悪い」/琥珀色の戯言 「話せばわかる」ような人って、「話さなくてもわかる」場合がほとんど。 (中略) そんな「非効率的な説得」に時間をかけるくらいなら、僕はひとつでも、新しいことを書きたい。 webやブログが「同意系の媒体」って言ったのは、Lsty氏だったっけか、いやもうちょっと別の言い方だったか。 人がその個性をもって使う文体や表現ってのは、それでその書き手の言いたいこと全てが伝わるとはいえるはずがないわけで。その人の持っている思考なんぞの氷山の一角のようなものをぽこんと切り取って貼り付けるのにもちょっと似たりとも思う。そこで理解できるか理解できないか、なんてことは、その文字表現の上手下手とかそんな小手先のことでもなくて、書き手と読み手にとって、共通したある何ものかの趣味や好みだの思考だの体験だの情景だの記憶だの、そんなことの小さなピースが一個か二個はまればそれで「

    web上のやりとり、使う言葉、伝わる言葉 - リツエアクベバ
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/06/20
    共通した記憶や体験が「わかる」につながるのかぁ。共有し合う、寄り添えた感覚に近いのかな。『間』を心地よい距離を持ってバランスよく引き出し合えるのかも。
  • 「話す中心」と「聞く中心」に思う - 『斬(ざん)』

    以前書いた記事の【ネット上での人格 その2】で S嬢さんからいただいたコメントに、触発されて記事にします。 話し逸れますが(って、いきなり脱線かよ!)、 オレのブログでやりたい展開ってこーゆーのなんだよね。 じっくり読んで、それに対するコメント、そのコメントに 触発されて新たな展開になっていく。時間掛けてじっくり 考えて練り込んで行く。 ん~。充実感!! 話を戻します。 コメントの中でS嬢さんは 人の持つスタンスってとこで、 「話す中心」と「聞く中心」ってのがあって。 「話す中心」ってのが強い場合、 「話し相手になってくれる相手を失うか否か」ってのは、 精神的死活問題になるところもあるんじゃないかと。 と、仰っていますが、まさにオレには「目から鱗」でした。 単細胞的な頭の固い発想しかないオレには、強烈でした。 「聞く中心」なオレ(ってかオレの場合「観る中心」なんだけど) からすると、 「話

    「話す中心」と「聞く中心」に思う - 『斬(ざん)』
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/06/19
    話す事と同じ比重で聞く事ができると、どちらの欲求も満たされるんですね。どうしてもどちらかに偏っちゃうんだけど。シーソーみたいにバランスよくスイッチが入るといいのにな。
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    わたし的棚ぼた一万円選書 急に千葉さんに手渡された封筒、開けてみたら1万円札が1枚。何ごとかと思えば、同期の出張を代わったお礼をもらったらしい。 「葵はワンオペで育児してくれたから」と半分わけてくれました。 泡銭の1万円 これはもう、わたし的1万円選書をしろという思し召しなのでは……

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  • ウェブリブログ:サービスは終了しました。

    「ウェブリブログ」は 2023年1月31日 をもちましてサービス提供を終了いたしました。 2004年3月のサービス開始より19年近くもの間、沢山の皆さまにご愛用いただきましたことを心よりお礼申し上げます。今後とも、BIGLOBEをご愛顧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 ※引っ越し先ブログへのリダイレクトサービスは2024年1月31日で終了いたしました。 BIGLOBEのサービス一覧

    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/05/18
    自分から離れすぎた話は妄想や空想になってしまうし。距離の保ち方が難しいけど、自分の世界へ大暴走でなければもともと個人の意見が聞きたいわけだし。
  • 人間はタグ化する - 会計士、web2.0を語る

    Homepage主体のweb空間から、RSSblog主体のweb空間に変わって、まさしく「FeedがWeb2.0の血液」(FBSのサイトより) となりつつあると思う。 blogの記事がfeedを通じて、書き手を離れて記事単位で一人歩きするようになる。 ゆずゆの悪戯 さん http://d.hatena.ne.jp/yuzuyu_koro/20060515 の不安/違和感には非常に共感を覚えます。 このようなwebの状況で、一人歩きする記事をどのように捉えるか、二通りの方法があるかと思う。 一つは、前後の文脈抜きにその記事だけでその人のideaを理解しようとする方法。 もう一つは、その記事につけられた"書き手"というタグをたどって、その人をその他の記事も含めて全体的に理解しようとする方法。 FeedがWeb2.0の血液 という文脈は明らかに前者を想定している。しかし、僕は二つ目の思考mod

    人間はタグ化する - 会計士、web2.0を語る
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/05/16
    事象を既製化できても、心の機微や想いまでは画一化できない。だから他の人と関わるのが深いのだし興味深い。
  • 認証がかかっています

    こちらのブログには認証がかかっています。 ユーザー名 パスワード Powered by Seesaa

    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/05/09
    1つの記事を読むと隣の記事、リンクされた記事と様々歩いた後にまた最初の記事を味わいたくなる。ふと「あの記事にまた逢いたい」と駆け込むことも。
  • みやきち日記 - ネットリテラシーやメディアリテラシー以前に、「プチ文盲」な人が多くないか

    塾の講師を長年やっていて気づいたのが、文字から情報を取り出して理解することができない子がたくさんいるということ。その能力の低いこと、もはや文盲に近いです。あたしは便宜上こうした子たちを「プチ文盲」*1と呼んでいます。 塾で使うワークブックには、問題だけでなく、「要点のまとめ」や「アドバイス」などのコーナーがあります。そこを見るだけでかんたんに解けてしまう問題も多いです。ところが、「プチ文盲」の生徒たちは、「『要点のまとめ』のここを見て調べながらやってね」と言われてさえもまったく問題が解けません。ちなみにそういう生徒に「まとめ」の部分を音読させてみると、こんな感じ。 生徒「be動詞の疑問文は、be動詞を……ぶ……『ぶんあたま』って何?」 あたし「『ぶんとう』(文頭)」 生徒「……『ぶんとう』に出す。否定文ではbe動詞の後にnotを『よういる』」 あたし「『もちいる』(用いる)」 生徒「……『

    みやきち日記 - ネットリテラシーやメディアリテラシー以前に、「プチ文盲」な人が多くないか
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/04/26
    知識や経験を自分自身に取り込む行為が、敬遠されがちになってきた。
  • 「偽りの物語」 - 琥珀色の戯言

    「まなめはうす(http://homepage1.nifty.com/maname/)」さんに、↓のようなコメントをいただいたのですが、 http://homepage1.nifty.com/maname/log/200604.html#111952p3 唯一疑問に思いたいことは、「偽りの物語」という部分。それを偽りだと判断できる立ち位置は「少数の人々」なのか「外側の人」なのか、そして偽りだと言えるのはどの時なのか、などなどいろいろ考えてしまうところです。 と仰られたのは、確かにその通りだなあ、と感じました。いや、書いている僕がそれじゃいけないとは思うんですけど…… 実際のところは、この世界には、単に「いろいろな物語」が転がっているだけで、それが「正しい」か「偽り」かなんて誰にもわからないのかもしれないし、そもそも、「正しい」とか「偽り」かなんて考えること自体に意味がないのかも、という気も

    「偽りの物語」 - 琥珀色の戯言
  • グリム童話について

    日頃より楽天のサービスをご利用いただきましてありがとうございます。 サービスをご利用いただいておりますところ大変申し訳ございませんが、現在、緊急メンテナンスを行わせていただいております。 お客様には、緊急のメンテナンスにより、ご迷惑をおかけしており、誠に申し訳ございません。 メンテナンスが終了次第、サービスを復旧いたしますので、 今しばらくお待ちいただけますよう、お願い申し上げます。

  • わかったつもりになってる人には伝わらない – 音極道茶室(旧アーカイブ)

    小学校1年生の時、近所の映画館で初めて洋画を見た。 ブルースリーの傑作「燃えよドラゴン」とショーンコネリー主演「007 ダイヤモンドは永遠に」の2立てだった。 字幕スーパーを読んでストーリーを理解するのは、6歳の子供には酷だ。 しかしどちらの映画も、当時見た内容を今でも鮮明に覚えている。自分にとってはそれだけ強烈な体験だった。大きなスクリーンの中で躍動するブルースリーやジェームスボンドの姿に胸を躍らせた。その面白さにすっかり興奮し、釘付けになった。個別のシーンもたくさん覚えている。 そして、映画館からの帰り道。一緒に映画を見た兄との会話の内容がまた忘れられない。 兄「おもしろかったのか?」 私「おもしろかったー!」 兄「ウソつけー。おまえ漢字も読めないじゃん。」 私「えー!?だって面白かったもん」 兄「じゃあ、007ってどこの国の人だか知ってるか?」 私「…うーんと、アメリカ」 兄「バー

  • かな、と思います

    もう昔の話ですが、ある問題への解決策を示した人が、私に意見を求めました。私は、賛成の意を表そうとして、「それが唯一の解決策なのかな、と思います」と答えました。 この言い方が悪かったのです。先方の気分をひどく害したようでした。「あなたは、私の言ったのが唯一の解決策ではないと思うのか? そのように、何にでも反対しては結論が出ないではないか。それならば、対案を出されたし」と、たいへんな剣幕です。 私の発言の中の「かな」ということばが誤解されたんですね。「かな」は、疑いの意味を表します。そこで、先方は、私が「それは唯一の解決策であろうか、いや、ない」と反対意見を持っていると受け取ったのです。 こちらのつもりとしては、反対しようなどとは思っていませんでした。「それが唯一の解決策なのかな、と思います」は、ほとんど「それが唯一の解決策だろうと思います」と同じ意味でした。「かな」は、相手への疑いを表すこと

    かな、と思います
    yuzuyu_koro
    yuzuyu_koro 2006/02/08
    断定でものを言うと人間関係に角が立つから、「かな」や「なんちゃって」を語尾につけるようにと高校の先生に指導されました。「ニュアンス」って難しい。
  • 日記における「真実」と「嘘」 - 琥珀色の戯言

    http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/day?id=103512&pg=20060203 そういえば、WEB上には、純粋な「(日常)日記」というのは、ずいぶん減ってしまったように思える。あるいは、そんな他人の「日常」なんて、読んでも面白くないので誰も読まなくなってしまっただけなのだろうか。 僕も以前、自分が書いた日記の内容に関して、「どうして、一緒にごはんをべたのに、そのあと何もしなかったのですか?」というようなコメントをいただいて、それに対して、次のように返事をしたことがある。「僕は自分の『日記』に嘘は書いていません。でも、書くことによって誰かを傷つけてしまったり、自分が不利を被ってしまうような内容に関しては、『実際に起こったことを書かない』ことはあります」と。 そもそも、「日記」というものに、起こったことをすべて書くことは物理的にも不可能だ。トイレで紙を

    日記における「真実」と「嘘」 - 琥珀色の戯言
  • ポチは見た!〜マスコミの嘘と裏〜

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