大正時代の終わりごろ、会津坂下町の住民が会津坂下駅と喜多方駅を結ぶ鉄路を構想した。「坂喜鉄道」と呼んだ。上京して国への陳情を重ねたが、日の目を見ることはなかった。失望は大きかったに違いない。町史に記録が残る▼実現していたら、環状線が生まれていたとされる。会津若松を出発した列車は磐越西線で喜多方に着く。そこで坂喜鉄道に乗り入れ会津坂下へ。さらに会津線(現・只見線)を走り、会津高田などをぐるりと回って会津若松に戻ってくる…。まるで東京の山手線を思わせる▼一城楓汰著「只見線敷設の歴史」(彩風社刊)は<会津盆地の鉄道風景がまったく違ったものになっていたであろう>と読む。新しい駅も開設されて人や物資が集まり、小さい街ができていたかもしれない。経済の様相や行政のあり方、住民一人一人の生き方も、かなり変わったのではないか▼JR磐越西線が豪雨災害から立ち直り、全面再開通した。只見線は全線復旧から半年が過ぎ