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ブックマーク / blog.szk.cc (31)

  • 社会が変わるときって « SOUL for SALE

    生きていることがもう間違い 1年の振り返りをする習慣がついたのは、ブログを始める少し前のことだから、1998年かそこら、だいたい25年くらい前のことだと思う。当時の僕は色んなことに追い込まれていて、それが回り回ってすべてに諦めがついたというか、もう年の境を超えたら自分は死ぬのだと思っていれば、どんなことも爽やかな気持ちで受け入れられる、そんなことを考えていた。 それから四半世紀もたったのに、やっていることは相も変わらない。今年も僕は自意識上の問題に追い込まれ、それこそ吊ったり飛んだりしなかった自分を褒めてやりたいくらいには落ち込み続けていた。 きっかけは色々ある。それらの出来事の中には、悲しいけれど仕方のないことも、むしろ喜ぶべきことも、また必然的な流れとして起きたこともある。ただそれらの出来事を並べたときに、これって全部、自分さえいなければ起きなかった、自分がすべての起点にある、要するに

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    Guro
    Guro 2024/01/10
  • 0311-0508 « SOUL for SALE

    2023年5月8日をもって、この3年、日社会を統制していた「コロナ対策」は、特別扱いされることがなくなる。勤め先の大学でも先だって、この日をもって「コロナ特別対策部」が解散され、すべての制限が撤廃されるというアナウンスがあった。「コロナ対策の終わり」と「コロナの終わり」はまったく別のものだろうけれど、両者を同じものだと受け取る人は少なくないだろう。 学生ですし詰めの満員電車や、観光地の長蛇の列を見ていると、ああ、この3年はほんとうに非日常だったのだなと実感する。人のいない京都のお寺や美術品をじっくり見て回ることができたのはありがたかったけれど、「あれはあれでよかった」なんて到底言えない。そのくらい、苦しいことだとか、永遠に失われたものが多かった3年だったと思う。 大阪大学のグループの研究によると、「新型コロナ感染禍に接した直後(2020年1月)の心理を1年後に回顧させると、過小評価する

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  • 愛にできることはまだあるか ー 『すずめの戸締まり』をめぐって « SOUL for SALE

    公開直後に観に行って、ほんとうに声を上げて泣く寸前まで嗚咽したのが、新海誠の最新作『すずめの戸締まり』。過去2作と比べてもエンターテイメント性の高い、アクションありコメディあり感動ありの高い完成度には舌を巻いたし、ものすごいスクリーン数で公開されていたことを考えても、興行収入は記録的なものになるだろうという印象を持った。周囲に聞くと人によっては「難しい」という声もあったのだけど、公開直後から良質なレビューブログもたくさん書かれていたので、以前のような考察を書くほどでもないかなと思っていた。 ただ、少し時間がたってあらためて振り返ってみると、自分の気になっていた点について論じている人があまりいなかったことや、それが自分自身の考えてきたこととシンクロする論点であることにも気づいてきて、それならば、と少し書いてみることにした。以下では作品へのネタバレを含むものの、作品そのものへの批評や感想ではな

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  • 仕方ないなんて言わない

    もしかしたら、あれが生涯で最後の瞬間だったのかもしれない。ふと、そんなことを考えた。コロナで途絶えてしまった飲み会やイベント。誰かと話をしたこと。悔しくて涙が止まらなかったこと。自分は無敵だと思えた瞬間。あれもれこも、あのときが最後だったのかもしれないと。 懐かしいとか戻りたいとか、そういうことじゃない。すべてのものはいつかなくなってしまう。だからこそ、愛おしいとか美しいと思えたその瞬間を、永遠に記憶していられるくらいのつもりで全力で生きようと思っている。ただそれでも、あの瞬間はもう来ないのだという事実は、時間の流れの前に抗うことができる人間はいないという真理は、やっぱり体のあちこちを軋ませる。ちゃんと、明日死んでもいいと思えるくらいの今日を生きられているだろうか? 先日、沖縄に行く機会があって、いくつか戦跡をめぐった。おとなになってからそうした場所を真剣に見て回るのが初めてだったのですご

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    Guro
    Guro 2022/05/12
  • 理念を共有するパワー

    学者が論文を書くときのプロセスにはいくつかのパターンがある。先行研究を広く批判的に読み込んだ上でリサーチ・クエスチョンを立てるというのが正統派のやり方だと思うのだけど、僕が好きなのは、先行研究と最新の事例や現象を組み合わせて、既存の枠組みをアップデートするような研究だ。なので、書いたときにはまだはっきりしなかったけれど、あとになって振り返ったときに、この指摘はいまのこれを示しているのではないか、と思えてくることがある。 たとえば『ウェブ社会のゆくえ』(2013)は、後にポケモンGOが登場した際、現実空間と情報空間の関係を表す理論枠組みとしてたびたび言及されたし、社会学の教科書で書いた「グローバリゼーション」(2017)は、執筆時点でまだ起きていなかったトランプ現象やブレグジットの背景とされた、格差が生み出すグローバリゼーションへの反発を主題としていた。書いた方は、あまり自分の論考を振り返る

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  • 「プーチンの戦争」のユニークさ

    2022年2月に発生したロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、国際関係論、あるいはグローバリゼーション論の観点から、非常に多くのユニークな要素を持っている。現在までのところ情勢は不安定であるだけでなく、侵攻したことそのものだけでなく、様々な点で専門家の予想を裏切る事態が起きていて、起きていることを意味づけたり、今後を予測したりするのは容易ではない。しかしながら、そうした「予想外」も含めて、現段階で言えること、考えられることを残しておいて、状況の変化を見極めることも重要だろう。というわけでこのエントリでは、ここまでの流れで見えてきている、今回の出来事のユニークな点を挙げておきたい。 (1)はじまりも終わりも不合理な戦争 まず国際関係論の専門家を困惑させ続けているのは、今回の軍事侵攻がどう見ても不合理である点だ。ロシアの思惑は、どうやら電撃作戦によってキーウ(キエフ)を陥落させ、ウクライナに傀

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    Guro 2022/03/09
  • 下り坂の世界のケア

    ケアについての議論が流行している、と思う。背景にあるのは、フィジカルなものであれ、メンタルなものであれ、ケアの必要性を感じている人が増えていること、さらにその奥の、この社会全体が「衰退のプロセス」にあることだろう。沈みゆく船で「マイナス幅を減らすだけの仕事」を頑張れる人は、そんなにいない。 問題は、ケアする側とされる側の不釣り合いな関係だ。ケアされたい人の数に比して、ケアしたい人の数は少ない。しかもケアのようなサービス労働は、機械化などによって生産性を高めることが難しい。ひとりの話を聞くのに面談で1時間かかっていたものがオンライン面談に切り替えて10分ずつ6人と面談できるようになって効率がよくなったと言われても、ケアの質が上がったとは言いきれないだろう。 ケアが必要な人は増えていくのに、それを担う人は増えない。その解決策のひとつとして注目されているのが「ケアしあう」関係だという。たとえば男

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    Guro 2022/02/08
  • ランキングから降りる

    大学教員になってから、年の暮れというものの感覚がずいぶん変わった。確かに学生たちの卒業論文・修士論文が大詰めの時期だからあまり気の休まることはないのだけど、一方でレギュラーの授業がない時期だというだけで、あるいは事務職員との打ち合わせや会議が入らないということだけで、普段よりものんびりできるようにも思える。考えごとをする時間が増えるから、1年を振り返りながら、余計なことばかり考えてしまうのは若い頃と変わらないのだけれど。 ただ今年に関しては、振り返っても「辛かった」「苦しかった」という思いがフラッシュバックするばかりで、あまり有意義なところはないかもしれない。たしかに昨年のように多くのものが止まってしまうという状態ではなくなった。だけど、「どの程度まで動くかは各自の判断に任せる」という世の中全体の方針が、昨年以上に僕たちをバラバラにしたように感じる。どのくらいリモートワークを続けるのか。い

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    Guro 2022/01/06
  • 対面の再開と対面の強制

    対面授業は再開されていないのか 大学では、後期(秋学期)がスタートする時期になっている。勤め先でも8月からワクチン接種が始まり、いまがちょうど2回めの時期ということで、副反応を理由に欠席する学生も多いようだけれど、夏休みの時期よりはキャンパス内もにぎやかになってきたように思う。 このように書くと、大学は再開しているのかと思う向きもあるかもしれない。しているとも言えるし、まだまだとも言える。毎日新聞が報じているように、ワクチン接種を進めている大学の中でも、スタートが遅れたことや緊急事態宣言下であることなどを理由に、後期のスタートから全面再開とはいかないのが実情だ。 ただ、ここで注意しなければいけないことがある。同じ記事にもある通り、ゼミや実習といった対面で開講することが望ましい科目については既に学内での受講が可能になっているということだ。これは勤め先に関して言えばこの春からずっとそうだし、昨

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    Guro 2021/09/27
  • 「負け戦」に立ち向かう

    政府への不信が直接の原因ではない 3度めになる緊急事態宣言が出されて1週間。大型連休と重なることもあって宣言のアナウンスメント効果も期待されたが、現実には感染防止どころか、むしろ拡大する傾向にある。人々の行動抑制に対する効果のタイムラグを考えても、今回の「宣言」とそれに伴う措置が成果を挙げられていないのは明らかだ。 どうしてこうなってしまったのだろう。ネット上では、行動制限を促す一方でオリンピック開催に向けて突き進む政府の方針の一貫性のなさに呆れ、「もう従うだけバカバカしい」という声も散見されるようだ。だが、「政府の方針」と「行動を抑制する人が増えない」ことの間に、直接的な因果関係を見るのは難しい。来、このふたつは独立の出来事であり、「政府は危険だと言っているが、コロナなんてただの風邪なのであり、感染防止なんてしなくてもいい」と考えない限り、両者が論理的に結びつくものではない。 東京都の

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    Guro 2021/05/31
    いまいちど。“誰もが「どうせ負ける」と思いつつも、「早く負けたって決めてくれないかな」と思うだけにとどまるというのは、今般のオリンピックに関しても見られることかもしれない。”
  • 美しさについて

    45歳になる今年、『シン・エヴァンゲリオン』を見ていて強く感じたのは、自分の年齢だ。大学院の研究室で出会ったゲンドウとユイの間にシンジが生まれたとき、ゲンドウが30過ぎだとすると、少なくともテレビシリーズにおけるゲンドウの年齢は40代半ば。当時すでに二十歳そこそこだった僕は、シンジに共感まではできなくとも、ミサトさんですら「大人」の側だった。なのに、気づけばゲンドウと同世代になってしまっていた。そして困ったことに、あの頃のまま、人との距離のはかり方に悩んだり、人に期待しては傷つくことを恐れたりと、思春期マインドの真っ只中にいまもいる。 今年は物書きとしてデビューして20周年とか、Lifeを始めて15年とか、気づけば大学勤めも13年目の干支も2周目とか。特にいまの仕事は春がくるたびに環境がリセットされるループの世界だから、「サイクル」というのをすごく強く意識する。若者だった教え子たちはすっか

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    Guro 2021/04/19
    “シン・エヴァンゲリオン”
  • 続・社会学は何をしているのか

    以前のエントリで触れたように、社会学という学問は往々にして誤解にさらされるものだ、と、当の社会学者自身が思っている。社会学が他の学問より誤解を受けているという証拠はないけれど、少なくとも研究対象になるものが、専門家以外でも触れることのできる、多くの人が経験したことのある出来事だからこそ「社会学者の見方は間違っている」と非難されることが多くなるのは確かだろう。その非難は、学術を専門としない当事者だけでなく、同じ対象を扱っている他分野の研究者からなされることもある。 たとえば昨年開催された日社会学会におけるシンポジウム「社会学への冷笑と羨望――隣接分野からのまなざし」は、そのような他分野からの視点を学会的に取り入れようという意欲的な試みで、僕自身は参加しなかったのだけれど、とても刺激的なやりとりがあったようだ。学会員向けのニュースレターによると、環境経済学の専門家から指摘されたのは、環境問題

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  • 2020年の音楽を振り返る

    音楽が傷ついた1年 もしも2020年にインターネットがなかったら。コンテンツを無料で見られるところで公開するなんてありえない、という時代だったら。それはもう大混乱だったと思う。新曲をプロモーションする場はテレビにしかないのでヒット曲は極端に偏り、ライブ興行のできないインディーズバンドが苦境に立たされ、ファイル交換ソフトで新曲のリリースなんてことになってたかもしれない。たとえばいまが2000年代だったら。 幸いなことに2020年になるまでに、音楽が人々に届けられる環境のDXはかなり進んでいた。音楽配信はサブスクリプションが標準化され、今年は複数の大物アーティストの楽曲がサブスクリプションで配信(「解禁」という言い方は好きじゃない。誰も禁止なんかしてないもの)されるようになり、YouTubeにアップされたPVは、作り込まれたアニメ調で情報量が多く、それを深読みするファンの存在もあってコンテンツ

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  • 立ち止まるか、動くか――2020年のまとめ

    時間の停止した世界で 昨年は、数年に一回とも言えるほどにたくさんの仕事をした年だった、と1年前のブログには書かれている。そして、「どうせなら、いい時間にしたい」という、人生観の変わる年であったとも。おそらく、とても充実していたのだろう。 その点について言えば、今年も、ほんとうに充実した年だった。ただし決してポジティブな意味ではない。2月頃からコロナ禍が国内でも顕になり、そのタイミングで学部執行部の仕事を引き継いだ。最初に行ったのは、600名以上いる新入生のガイダンスをオンライン化すること。そして、1年生の必修科目の教材のオンライン化だった。 4月の緊急事態宣言のさなか、こうしたオンライン化を乗り切れたのは、偶然がいくつも重なったからだ。昨年度までにノーコードでスマホサイトを構築するノウハウはできていたし、「THE FIRST TAKE」に感化されて1月には買い揃えていたレコーディング機材も

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    Guro 2021/01/06
  • 「裏のカリキュラム」を表に

    「もしも僕がいま、二十歳の大学生だったら、それはもう相当に怒っていたと思う」という、勢いだけで書きつけたブログは、予想以上の反響を巻き起こした。といってもソーシャルメディアは見ないしエゴサーチもしないので、その反応を感じられたのはマスコミからの取材依頼を通してだった。大学生の現状を取材しているうちに、大学側からの視点として記事・番組に盛り込みたいということで参考にしてくださったらしい。 ただやっぱり、「じゃあお前は足元の学部で何をしとるのだ」という思いはずっとあった。たまたま学部執行部の仕事を担っていることもあって、動くしかない、という決意をして、1年生を支援するタスクフォースの発足を学部長に直訴したのが春学期終盤の7月。数名のチームで課題の洗い出しやそれぞれで動いていたことを共有し、秋学期に入ってからは、1年生が登校している曜日に自由参加のオフラインイベントを、ほぼ毎週開催することになっ

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    Guro 2020/10/19
  • 社会学は何をしているのか

    「何をしているのか分からない」 社会学部の教員をしているとぶつかる壁のひとつに「社会学を宣伝することの難しさ」がある。社会学部の教員も学生も、「社会学部って何をするところ?」とよく聞かれるのに、それに答えられないというのだ。もっとも「じゃあ経済学部では何を勉強するか知ってる?」と聞いても「経済のことを勉強するんでしょ」という、おそらく経済学者なら間違いだと言うだろう回答しか返ってこないわけだから、「社会学は説明が難しい」というのも思い込みでしかないのだけれど。 一昔前の日の教科書では、「社会学は常識を疑う学問です」なんて書かれていた。けれどこの説明も、もう古臭いものになっている(この辺についてはこのや講義動画を参照)。最近の説明としては、日社会学会の社会学部への進学を考えている人向けのサイトで示されている「異なる価値観をもった人間たちが多数集まって形成されるこの社会を解き明かす学問」

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    Guro 2020/09/16
  • オンライン化で失われたもの

    もしも僕がいま、二十歳の大学生だったら、それはもう相当に怒っていたと思う。 高校までは再開して、アルバイトでは感染対策をした上で通常の業務を行うのが当然と言われ、それなのに大学は年度内ずっとオンライン。大学からの説明は不十分であるか、説明があったとしても「大学への通学は感染リスクが高いから仕方がない」「ただし学費は満額いただきます」だ。大学教員のブログを見れば「大学は感染対策を甘く見ている。今後もずっとオンラインの覚悟を持つべきだ」「大学は不当に批判されている、私たちも頑張っているのに」とくる。ついでに言うなら、学生の授業環境の改善について指針を示すのではなく、おおむね大学の対応に文句をつけ、学生にもそのような見解を共有するだけであることも多い(なお、給料とボーナスが例年通り支給されていることについては伏せられている)。 もちろん僕は教員側なので、そうした学生の主観的な思い込みには、いくつ

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    Guro 2020/08/17
  • 速度が問題なのだ――技術と民主主義の未来

    刺激的、というよりは既視感のある対談だった。ユヴァル・ノア・ハラリとオードリー・タンの対談のことだ。対談の概要は冒頭に湯川鶴章さんがまとめてくれたもので把握できるが、僕らがかつて技術と社会思想の間で考えていたことの変奏であり、また21世紀に論じられてきた問題の最先端の知見が披露されていることがよく分かる。たとえば両者ともに、ローレンス・レッシグの『コード』を前提に話しているが、レッシグの名前はまったく出てこない。いま技術と社会の話をする上での基礎教養の水準がどの程度であるのかも、対談の見どころのひとつだ。 僕の見るところ、この対談でもっとも重要な論点となるのは、「技術は人の意思決定をコントロールするものになるのか、エンパワーするものになるのか」というものだ。ハラリは自らを、技術に対してデータを提供し、技術に「使われる」側に立ち、個人の意思決定のみならず、自己理解、そして民主的な決定までもが

    速度が問題なのだ――技術と民主主義の未来
  • 「大学生の日常」のために、大学ができること

    普段にも増して、コロナ禍の状況でネットを見なくなった。SNSなんて心の健康に悪いだけだ、と思っているからだけど、もちろん情報収集を怠るわけにはいかないので、どうしても目に入ることはある。そんな中で読みながら心が痛くなったのが、こちらの一連のツイート。 いわゆる「リプ欄が地獄」というやつだろうか。美大に通う1年生の学生が、なぜ大学だけは対面が許されないのかと嘆くのに対して、なぜか批判的なリプライが続き、それに対する批判のリプライが連なり、という流れ。そして拡散されていくに従って「自分もまったく同じ」「共感する」というリプライが増えていく。こう書くといかにもネット炎上について記事にしているみたいでそれも気が重いのだけれど、自分が当事者であることも含めてどうしてもスルーはできず、珍しく上から下まで読んでしまった。 社会全体として「自分だって我慢しているのにあいつらときたら」「あいつらのせいで真面

    「大学生の日常」のために、大学ができること
  • 共感資本主義のゆくえ

    にわかに浮上した「講義のオンライン化」という課題に忙殺され続けた春学期(前期)もそろそろ終りが見えてきた。それに関連して、毎日新聞で受けた取材では大学の講義が、「マルクスについて聞こえる空間にぼんやりと身を置き『そういえば、俺のバイト先でも…』と連想するようなことも含めたものだった」というコメントが採用されている。別にマルクスである必要はなかったのだけど、大学における対面活動の価値の一部に「当初は意味があると思えなかったものに意味を見出す」ということがある、という例として、いわば「資主義を生き抜くのに役立つ思考」の対極として挙げたのがマルクスだったわけだ。 ただ思わず口走ったレベルの話だったものの、的はずれな例示でもなかったのかもしれないと思ったのは現代ビジネスの記事でマルクスと大学生の話が取り上げられていたからだ。景気の下降期にマルクスが注目される現象は過去にもあったけれど、ここでは資

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    Guro
    Guro 2020/07/09