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ブックマーク / zeromemory.sblo.jp (30)

  • suVeneのあれ: 「否定」に対する嫌悪感について

    2008年03月28日 「否定」に対する嫌悪感について suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 において、「何故ですか?」と問うことが、「否定」的な意味と「質問」としての意味を持つというようなことを書いた。そして、やや意識してではあるが、「否定」的な場合の例を、非難めいた価値観を織り交ぜたものとした。 しかし、来俺が考える、主張に対する「否定」は、それほど嫌なイメージはない。寧ろ、不特定多数に対する意見を交換できる場所ならば、好ましくあることも多い。 嫌な「否定」と嫌じゃない「否定」 まず、嫌な否定の話。人は何故、主張に対する否定的意見に嫌悪感を持つことがあるのだろうか。 ひとつは、(全人格とは言わないが)自分の価値観の一部である「感受性を否定された」と感じるからではなかろうか。 これは、「ネガティブコメント」などにも絡む問題だとは思うが、「○○だと思う」

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    NOV1975 2008/03/30
    「わかっていないのがわかっていること」をわざわざ言うことに対する嫌悪みたいなものかも。/本人もわかっていないところを何故って聞くのは感受性の否定みたいな。非論理的な態度ではあるけど。
  • suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味

    2008年03月25日 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 よく俺はネット上の文章におけるコミュニケーションで、「何故ですか?」とか「○○が理解できない」という事を書くわけだけれども、それを「主張に対する否定」という意味と解釈されることがあるから、一応気をつけているよ、という話。 質問としての「何故」、否定としての「何故」 まず、「何故?」にも二種類の意味があると思われる。 それは、質問する側が、「自分が正しいと思う主張と異なる」と考える時に発せられる「何故」と、そうでない場合に発せられる「何故」である。 前者の例を挙げると、目上の人間が目下の人間(母から子や、上司から部下、など)に対して叱咤の意味で発せられる、「何故そんなことしたんだ!」「あなたのやったことが理解できない!」といったものがあるだろう。この場合の「何故」や「理解できない」には、明らかに「叱咤される側の方法は間

    NOV1975
    NOV1975 2008/03/30
    id:suVeneさんの「何故」が否定的・攻撃的に捉えられやすいのは、相手の痛いところを突いてしまっているからだと思う/でも弱いところだからこそ「何故」の対象になるんだけどね。
  • suVeneのあれ: お前は敵か味方か

    2008年01月10日 お前は敵か味方か 炎上、というか、人が集まってきて熱中しやすい話題というのが幾つかある。 その内容は、政治、宗教、差別といった社会的に大きな問題から、好きな歌手や、応援している球団、のような、まさに「自転車置き場」に代表されるような身近な問題までさまざまだ。 で、今日はそれらの中のひとつの話という訳でなく、それらの議論をしているときにかなりの割合で発見できることができるタイプについて書いてみる。どういうタイプかといえば、タイトルどおり、「お前は敵か味方か!?」という視点を固持しようとするタイプの人のことである。(自分だけ固持するどころか、相手にもそれを望むタイプ) 以前、私は mixi のとあるコミュの「分煙について」みたいなトピックで、取り交わされる議論を見ながら、自分の意見を何個か投げたことがある。その際、自分が喫煙者か非喫煙者かを特に明記せずに、質問をしたりし

    NOV1975
    NOV1975 2008/01/11
    話を打ち切って楽になるための儀式なので勘弁してあげてください。
  • suVeneのあれ: 「ほのめかし」についての考察

    2007年11月17日 「ほのめかし」についての考察 ほのめかし、或いは思わせぶりな発言について考える。 ここで言うほのめかしというのは、例えば「あの人がいうアレは、こういう意味だよね」のような、固有名詞や事象を特定するようなことを避け、背景や成り行きをある程度知っている人に向けた発言のことである。言葉というのは、自明の前提として何らかの意味を含んでいるものだが(それが伝わるかどうかは別として)、その意図を明らかに表出させず、「わかる人にはわかる」ようにする発話のことである。「ほのめかす」ということ自体は、肯定的・否定的という方向性とは別であり、また、意識的・無意識的な選択とも別であるのだが、共通することは「秘密」にしたいという意志の有無ということにしておこう。 で、「ほのめかす」ことが多く使われるのは、やはり言及対象に対して何らかの否定的な意見・意図を含むときだ。いや、多いということもな

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    NOV1975 2007/11/18
    意図としてはほのめかしではないんだけど、何かの議論とかから全く別の話とか、とにかく元の議論に関係ないところで展開できる話を導出した際に、ほのめかしと言われることはありますよね。
  • suVeneのあれ: 私的制裁

    2007年06月24日 私的制裁 元々、口が達者だと言われるような子どもだった。 理屈・屁理屈・ルール・善悪を問わず思ったことを口にする子どもだった。 神経質すぎる子どもでもあった。 5歳前後にして、髪の毛が抜けて10円はげができるほどに。 小学校にあがる前に引越をした。 それまでの近所の友達とはお別れをし、新しい場所での生活が始まった。 幸い同じような年齢の子供は近くに沢山いたので、遊ぶ友達はすぐにできた。 しかし、子どもというものは時として残酷なものである。 ある日、1歳~3歳上の子ども達に家に呼ばれた。 その家の両親は留守だった。 そこで人生1回目の私的制裁を受けた。 つまり、リンチというものを経験した。 新参者であり、生意気でもあるその子は目障りだったのであろう。 同時にそれは、信じるものからの裏切りという意味でもあった。 その時の記憶は朧げである。 覚えているのは、ソファ、音量の

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    NOV1975 2007/06/25
    結局のところ屈服していないからなのか、ばれたことからくるその後の出来事からなのか、わからないけれども、危険を冒したのに意図が満たされなかったからなんだろうなあ
  • suVeneのあれ: 共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」

    2007年06月12日 共感を求める場で、違った価値観の表明は「思いやりに欠ける」 ムラ社会だとか、女同士のコミュニケーションとかそういった括りで語るつもりはない。しかし、タイトルのように考える人は存在するし、シチュエーションによっては誰しもが持っている一面であろう。勿論、男にも女にもだ。 b# - 好きなもののことを語る気持ち 共感を求めているのであり、意見は求めていない 前回のエントリについて言及を頂いた。 「~が好き」といった直後に「私は好きじゃない」といったように,全く違う価値観を示すのはちょっと思いやりに欠けるような気がする。盛り上がりに水を差してる気がする。「なぜ,それを今いうの?」と思う。 b# - 好きなもののことを語る気持ち幾度となくどこかで小さな話題となる「悩みごとを相談する時、相手は答えを求めていない」といったようなとこだろうか。 疑問なのは、自分の好みを表明すること

    NOV1975
    NOV1975 2007/06/12
    僕も不思議なんだよね。自分がこう思うのが自由と考えているのであれば相手がそう思うのも、そう表明するのも尊重すべきだし、だからと言って受け入れる必要は無いし。単に感情として出せば良いだけじゃないかなあ。
  • suVeneのあれ: 好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感について(追記)

    2007年06月11日 好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感について(追記) ※ 昨日の続きでも書こうと思ったが、興味のあるエントリを読んだのでそれについて。 奥様、鼻毛が出ておりますことよ - 当に好きで大切なものを守るために口を閉ざす。 ざっくりと要約すると 音楽のとあるバンドが好きだ同じ嗜好を持つ人達と(蘊蓄を含む)話しをするのは楽しいでも、「知識自慢」になるのが嫌いで、くだらない自分の好きなバンドをどんな形であれ批判されるのが嫌だってな感じだ。 おもしろいと感じたのは、以下の2点だ。 好きである対象について、知識量を競いたくなる心理好きな対象を否定される時に感じる嫌悪感 前者はどこかの心理学者なり分析なりにまかせるとして、後者について少し感じたことを書こう。 何故ならば、俺は大抵の会話や対話などにおいて相手が「好きだ」という対象について、自分が好ましくないと判断した場合、「俺は

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    NOV1975 2007/06/12
    「止めて欲しい」ってのを直接言えないと仕方が無いと思うんだよね。嫌悪感を感じる理由なんて人それぞれなんだし、
  • suVeneのあれ: 読書管理・欲しい本管理の為のウェブサービスとか

    2007年03月18日 読書管理・欲しい管理の為のウェブサービスとか 図書館を活用しだしたのはここ1年ほどのことで、それまでは全部購入してたから、棚はすぐに満タンになるわ、年間10万以上飛ぶわで困っていた。で、図書館の効率のよさを知って、「なんていい所なんだここは!」と思っていたのだが、実は少しだけ問題がある。 それは、端的に言うと「手元にが残らない」って事だ。 これは別に、手元において置きたいすら買いたくないとかそういう意味ではなくて、自分がどんなを読んできたかってのが覚えてられないという意味で困るッつー話だ。 俺は名称を覚えるのが苦手って話を何度か書いたことはあるが、映画のタイトルや著者や監督に関しても例外ではない。(中身を忘れてる訳ではない) 大体、家にあるですらあまり覚えてなくて、例えば、図書館屋さんに行ってからタイトル見ておもしろそうだという選んできたはよいが

    NOV1975
    NOV1975 2007/03/18
    ブクログは僕も使ってるけど、まとめて追加したり分冊をまとめたりできるといいですね。
  • suVeneのあれ: ネット上の言論において価値観の「押し付け」というのは無理

    2007年02月28日 ネット上の言論において価値観の「押し付け」というのは無理 という立場を俺は取っている。 ただし、いくつか例外がある。それは、特定のコミュニティ内の立場やルールにおいて、権力者の発言に従わない場合不利益な結果がもたらされる事が自明である場合や、現実の生活におけるしがらみと紐付いている場合、明らかに法に触れる行為をしている場合などだ。 ここでは例外について細かく説明するのもアレなので、タイトルの話は、一般的(というと語弊があるか?)なブログのコメント・トラックバックを含む意見交換や、HNを含む匿名発言を許す掲示板などでの意見交換、かつネット上での交流しかない場合という話に限定しておこう。 んで、「押し付け」ってのは、ある個人(集団)が他の個人(集団)に対して、抗うことが不可避な状態で相手に同意を求めることだとしておく。責任の「押し付け」は、ここでは除外し、あくまで思想・

    NOV1975
    NOV1975 2007/03/01
    押し付けようとしている人は現実の権力を持ち込もうとするか、「他人の家に土足で」論法をするかのどっちかが多いような気がするな。
  • suVeneのあれ: 強者と定義する者への逆差別

    2007年02月27日 強者と定義する者への逆差別 世の中の価値観や物事・立場というのは、色んなかたちで分断できる。 そして、ある一定の「恣意的な境界」で一刀両断する事により、マイノリティとマジョリティに分断できることは当然である。 よく、「世の中には二種類の人間がいる」などと言われるが、この種類分けは無限に存在する。 問題はそのマイノリティに分類される側が、マジョリティから抑圧を受けていると考えていたり、マジョリティに対してコンプレックスを持っている場合である。個人的には、その抑圧が社会的・構造的・制度的に見て不当なものであれば解消していかなければならないと考えるし、コンプレックスがあるならば、いや、コンプレックスの有無に関わらず、無理にそのマジョリティの価値観を押し付けるべきではないと考える。その意味で、問題を定義し解消しようとするならば、マイノリティが(できれば結託し)声を上げること

    NOV1975
    NOV1975 2007/02/28
    これを意識するのは非常に難しいって言うか、ここでも意識するレベルという線を引かないと精神が持たない。でもその許容できるラインは人それぞれなわけで…という無限ループ/ごめんで済むことはごめんで済ませたい
  • suVeneのあれ: その発言には「悪意がない」という免罪符

    2007年02月20日 その発言には「悪意がない」という免罪符 という主張を、意識して利用することがある。 いや、「悪意がない」ことについて虚偽はないのだが、それでも尚主張せざるを得ない状況というものが個人的にある。 勿論、「悪意がない」ことで全てが許されるとは思っていない。「相手が悪意を感じた」ことによる責任が発生することもあるだろうし、「傷つけたという事実」が過失に当たる場合もあるだろう。ただ、それに怯えて必要以上に相手を配慮した(かのように見える)発言を俺はしたくない。 このようなことを書こうと思ったキッカケは、前回id:b_say_soさんとのやり取りに続き、今回id:laddermoonさんとのやり取りがあったからではあるが、この両者だけに向けて書きたい訳ではなく、今までの実体験としての全般的な話として書き記しておこうと思ったからだ。 * どのような時に「悪意がない」ことを主張す

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    NOV1975 2007/02/22
    自らの免罪符としてはよいですが、わりと他人へのプレッシャーになっちゃったりしませんかね、公言しちゃうと。
  • suVeneのあれ: 人を「嫌う」ということ(その1.5)

    2007年02月15日 人を「嫌う」ということ(その1.5) 次の記事は「「嫌い」であることと「ウザい」「苦手」「不快」と思うことの境界」について。つまり、「嫌い」という感情はなんなのかってのを考えてみようと思ったのだが、前回の記事で「相手に伝える」という事の状況やニュアンスについて、幾人かに誤解を受けているようなので、少し補足してみよう。(やはり言葉や文章で考えを伝えるのは難しいなぁと実感) *「嫌い」を伝える状況 まず、状況についてなのだが、前回の記事で追記したように「自然と距離を置くことが可能」な場合については想定していないということを述べておく。そのように心理的にスルーしたり、適度な距離を保てているのならば前回の話はほとんど関係がない。わざわざ関係の薄いところに出張して伝えることで、揉め事を起したり軋轢を作れという話ではないのだ。 次に、いまいちそのような状況が思い浮かばないという

    NOV1975
    NOV1975 2007/02/15
    コミュニティーの成り立ちによってもだいぶ違うものがあると思うな←環境。そう振舞わざるを得ないことも。ただ暗黙的なそういったやり取りは行われていることも多いか。
  • suVeneのあれ: 人を「嫌う」ということ(その1)

    2007年02月13日 人を「嫌う」ということ(その1) こないだの記事はネタだ。ただ、書き方はまるっきりネタだが、内容についてはそんなに考えてることとずれていない。 今日は「人を「嫌う」ということ」について書いてみようと思う。 まず、ブロガーについてなんだが、「嫌い」なブロガーってのはいない。これは、id:umeten さんの考えとほぼイコールだ。2007/02/11 12:38 umeten しかし、嫌いなブロガーってのは、普通目にしないし読まないものなのであんまりいないものなのでは?それでもブクマ数ゆえに目に付く場合に気に障るようになるとか。 はてなブックマーク - suVeneのあれ: 嫌いな(ハテナの)ブロガーの ID を挙げようぜ! (抜粋)先ほどもいったように「嫌い」なブロガーなどは「あんまりいない」というか、つまらん記事と判断したり、何いってんだこいつ?って思う記事はそもそ

    NOV1975
    NOV1975 2007/02/14
    利益または目的を達するために必要なのであれば隠す。そもそも僕もあんまり人を嫌いにならないけど、それは感情を隠さないからではないと思うのでその点あまり賛同しない。自分でも考えてみようかな。
  • suVeneのあれ: 嫌いな(ハテナの)ブロガーの ID を挙げようぜ!

    2007年02月11日 嫌いな(ハテナの)ブロガーの ID を挙げようぜ! あれだ。 好きなブロガーとか、興味のあるブロガーの記事は見かける事が多いんだが、嫌いなブロガーやツマラネーと思ってるブロガーの事書いてる記事ってのは見かける事が少ない気がするな。この場合、メディア系とか OhMynews とか GIGAZIN とか FPN とかそういうのじゃなくて、ほんと個人のブログの話な。大手も省く。(どこから大手かってのはまぁ感覚で。俺の感覚では 404 Blog Not Found みたいなのは大手って感じだな) いや、見かけない事はない。「こいつのこういう書き方が嫌いだ」「こいつはこういう部分がバカだ」などと、正面から DIS っている記事はたまに見かける。ただ、なんつーかあれだ。「好き」なブロガーほどは、気軽に書けないって事だな。 何故かと考えると、そりゃ簡単だ。 「好き」というのは関わ

    NOV1975
    NOV1975 2007/02/11
    裏はてなー協会のエージェントに消されますた
  • suVeneのあれ: りんごの実とムラ

    2007年01月30日 りんごの実とムラ このムラには大きなりんごの木が幾つもある。このムラのりんごの実はとても栄養が豊富で、一生べても飽きない味だと思われていて、そのりんごの実と水さえあれば生きていける。 このムラには大きなみかんの木も幾つかある。このムラのみかんの実はそこそこ栄養があるのだが、味がそんなにおいしくないと思われているので、このムラではみかんはべない。べてはいけない事はないのだが、みんなべない。 このムラでは、りんごをべるのが当たり前であり、このムラのムラビトはみんなりんごが好きだと思っていて、りんごが嫌いだなんてとんでもない話だと思われる。それでも極々たまにりんごが嫌いな人もいる。しかし、このムラではりんごをべるのが当たり前であり、りんごをべなくては生きていけないので、頑張ってりんごを少しだけべて、後はみかんを隠れるようにべる。 ある時りんごが大好きなム

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    NOV1975 2007/01/31
    どっちも好きだ。隠れて食べよう。
  • suVeneのあれ: 抑圧と弱者について考える

    2007年01月29日 抑圧と弱者について考える 抑圧。心理学的な意味合いでの抑圧ではなく(受け入れられないものや、認められないものを意識から無意識下へと押し込める心理)、他者からの抑圧、社会的構造からの抑圧、権力からの抑圧、など主に外部からの抑圧について考える。もう少し簡単に言うと、認められた(られるべきと考える)権利や価値観を外部からの影響により妨げられていると考えることである。 人は意識していようがしてなかろうが様々な抑圧を受けている。抑圧とは、わかり易い例をあげれば、社会的にも認知されている「女性に対する抑圧」などのことだ。ジェンダーの問題などというと、「何だか自分にも関係するけど、蚊帳の外のような感じ」がする人もいると思うが、もっと身近な問題も沢山ある。例えばそれは学校教育における「みんな仲良く」というスローガンの元に人と仲良くすることを強要されることであったり、会話が苦手な人に

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    NOV1975 2007/01/29
    そう、全てに属しているんだよね。それを忘れられる人がいちばん強いのかも知れない。人間的にではなく暴力的に。
  • suVeneのあれ: 「信用と信頼」に関するイメージを文章にしてみる

    2007年01月25日 「信用と信頼」に関するイメージを文章にしてみる 正式な用途は辞書を引いてもらうとして、個人的には<<信用>>と<<信頼>>の概念には大きな違いがある。 「(主観的判断で)信じる」という意味においては、どちらにも共通点がある。 信用 まず、「信用」という意味を考えてみよう。文字を額面通り受け取ると「信じて用いる」だ。信用する為には 信じる為の(必要だと思われる)幾つかの客観的根拠又は信じるに値する(と判断できる)、対象との直接的経験又は自分自身の経験から自明であると判断できるもの(“常識”や“当たり前”と思っているもの) が必要である。そして、これらの条件をクリアしたモノを信じることを「信用できる」と考える。 しかし、というか、当然のことながらこれらの条件は多分に主観的な推測であるので、信じていたこと(期待していたこと)にそぐわない結果が出ると信用は「失われる」。また

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    NOV1975 2007/01/27
    僕もそう思う。信用できないけど信頼できる人がそこそこいるのは幸せなのかな。信用も信頼もできる人はなかなかいませんね。
  • suVeneのあれ: あるある捏造で騙された人を嘲笑する人を見て

    2007年01月23日 あるある捏造で騙された人を嘲笑する人を見て 件の、あるある捏造(納豆でやせるって放送の資料の幾つかは捏造だったよって話)で、騙された人が多数いて、その人々に対して「騙されるほうがアレだ、プギャーm9(^Д^)」とか、「リテラシーが云々」と高説を垂れる人々を見て思ったことなのだが、個人的には「捏造をしてしまうメディアの体質」や、「そんな事実はないことを理解していて黙っている体質」こそ糾弾すべきであり、「俺(私)は騙されなかったよ、騙されたやつはバカ」ってのはどうかと思うのだが。 とは言いつつ、ネットに距離が近い人だと確かに「納豆でやせるは根拠がない」ってのは結構目にする機会が多かったので、そのようにバカにしたくなるのもわからんでもないのだが、騙された人々ってネットに普段距離が近くない人とかが多いのではないだろうかと推測してみたり。「とにかく痩せたいんだ!」って事で、科

    NOV1975
    NOV1975 2007/01/23
    リテラシーゲームの人には突っ込むべきでないのを思い知りました。
  • suVeneのあれ: 発言の一意性・連続性や発言した意図を汲み取る為の文脈は大事

    2007年01月07日 発言の一意性・連続性や発言した意図を汲み取る為の文脈は大事 こないだの記事は、「人格」なるものを定義しないままに書いたから、かなり誤解・誤読させてしまう記事だった。まぁ、「こいつ何いってんの?」みたいな、相手のツッコミビリティを刺激する隙のある文章のほうが多くの反応が帰ってきておもしろいから、悪い事だとは思わないけど。(それしか書けないくせにという批判は例によって受けつけない!) さて、「人格」を定義するのは今は難しいので、言いたかった事に対して誤解を受けているかな?と思う点をいくつか補足するかたちで書いていこう。 * 文脈・過去の発言や反応と人格とは別(と考えている) ただ思うのは、ある意見・主張があったとき、その記事を読んだだけでは全てを理解できないことが多い、ということ。それが匿名のものだったらそこで諦めるしかないのだけど、過去に関連する記事を書いているのだっ

    NOV1975
    NOV1975 2007/01/08
    僕は意図的に3つくらい文体を使い分けているわけで、仮想人格としてはそれぞれ別だと思っているし、必ずしも本心ではない。なので人格を読み取ることは求めていない。だから、そんなに間違っていないと思う。
  • suVeneのあれ: 文章から人格を読む人・読まない人

    2007年01月05日 文章から人格を読む人・読まない人 ネットを徘徊しているとたまに見かけるのだが、興味深い価値観がある。それは 「文章(ブログ)を書いている人物の人格を想像、又は知ること・観察することが楽しい」という価値観である。 何が興味深いかというと、俺にはほとんど皆無である価値観だからに他ならない。 そのような文章で見られた特徴を挙げてみると ・ 初めて見て興味を持ったブログなどでは、プロフィールが欲しい ・ どのような背景を持つ人物なのか興味がある ・ その著者の持つ感情などを想像する などなど。まぁ、タイトルどおり文章から人格と背景を読むわけであり、同時にそれが面白いと感じるようである。そして、そのような人達は、自分自身もまたプロフィール欄をきちんと用意し、どのような背景を持ち、どのような感情を抱いて生活しているかということを徒然と記述していることが多い。 その事に気づいてか

    NOV1975
    NOV1975 2007/01/06
    この人はどういう背景で以ってこんなことを言っているのかというのを理解する一助として想像してみることはそれなりにある。