オーベルジーヌ実食レポ 食べ物の鼻塩塩(未だに通じるのかな) オーベルジーヌというカレーをご存知だろうか 都内にあるデリバリー専門のカレー屋で、 ロケ弁などで大人気の本格欧風カレーが楽しめるらしい いいな〜 いいな〜オブザイヤー 都内の奴らはこんな良いモン食ってんのか 許せねえよ………
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⇒はてなブックマーク - 15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ - Rails で行こう! 私も若かったら日本を見捨てていただろうという点では同意見だけど。 まあ、ちょっと50歳の僕は言うみたいな話だと。 そうして、15歳で世界に出た若者の6割は死んじゃうんじゃないかな。3割は腐る。いや、脅しているわけじゃなくて、世界って厳しいよということ。 これはなんつうか、体で実感しないとどうにもならんのじゃないか。 というのは、英語できて、能力があって世界で活躍の場とかいうのは、甘過ぎだし、それじゃ9割のだめのカンタービレ。 個人的な話だけどね。 昔、週末に、お、休みとれそうだ、と、ちょっくらマニラ経由でエジプトに行ったことがあって、安いチケットかってジーンズでほいと出かけちゃったのですよ。飛行機がガラりとしていたし。 で、マニラでどっとフィリピーノが乗り込む。で、カイロで降りたら、私はすっかりフィ
日本での馮正虎。シャツにはアピール文が書いてある 馮 正虎(ひょう せいこ、フォン・チョンフー、簡体字: 冯正虎, 拼音: Féng Zhènghǔ, 1954年7月1日-)は、中華人民共和国上海市出身の人権活動家。 中国政府に帰国を拒否されたため、2009年(平成21年)11月9日から2010年(平成22年)2月3日まで、成田国際空港の制限エリア内で、抗議の寝泊まりを続けた。 生い立ち[編集] 1980年華東師範大学数学部卒業。1986年復旦大学管理学院卒業、経済学修士。同年から上海財経大学教員となる。1991年から日本に留学し一橋大学大学院で学んだ。妹の夫は日本人[1][2]。 人権活動[編集] 馮は1980年代に、中国国内で会社の経営や民間の研究機関である中国企業発展研究所の所長を務めていた。1989年5月に、中国人民解放軍による六四天安門事件の弾圧を批判する声明を発表したため、当局
レイプ被害についての様々なやりとりが最近、あちこちを賑わせているのです。 この手のやりとりの恐ろしいところは、盛り上がれば盛り上がるほど、男と女というのが無闇に対立するような構造になりやすいところだと思っています。おまけにその構造は男は加害者、女は被害者みたいな二元論ぶりでおまけにその場合の男と女って、ヘテロ前提ですが何か?風に語られている気がして、それもまたよくないよねえ、と感じます。 そしてさらに、しばし待たれよ、ほんとにこの手の性犯罪と自衛を結びつけた議論において、男女は必ず対立するものなのですかどうなのですかそのへん。 『24人のビリー・ミリガン』において、レイプを行った加害者たる人格はアダラナという名の19歳女性の人格だったりすることを思い出したりして。 さて、レイプの話になると、自衛すべきだという意見は、大体こんな風になるのではないかと思います。 「もちろん加害者が悪いのは確か
第三章のある部分で、著者は「神は欺かない」と論じるデカルトの考えから帰結することとして、三つのことをあげている。 第一に、神の観点からは、「過つ能力」なるものは存在しないことになる。(中略)デカルトは戦争において過つという活動を為したわけではないのである。例えば人間を殺すことは人間にとっては罪や悪を為すことであるが、神にとっては、人間を分割する活動や人間に物体を挿入する活動である。よって、過つ能力、罪や悪を犯す能力は存在しない。第二に、神の観点からは、欠陥・障害・怪物なども存在しないことになる。(中略)ある個体が種の本性に照らして怪物と評価されることがある。しかし神は、種の本性を理念として、個体を存在させているわけではないし、そもそも種の本性なるものは人間によって作為された観念にすぎない。よって欠陥や障害はいかなる意味においても過ちではないし、いかに異常に見える個体についても、神はそれを肯
長野県の南部、飯田のあたりは、高山の多い信州の中でも特に山深いところである。平地といえるような土地はほとんどなく、ろくな道すらないのだけれど、そんなところにも古くから人は住んでいるもので、天竜川に沿ってぽつぽつと小さな集落がいくつか点在している。 そうした集落をひとつひとつ数珠繋ぎするようにして、豊橋と辰野を結ぶ飯田線が全通したのが昭和12年。なにせ平らな土地のほとんどない深い山地のこと、さぞかし難工事だっただろうことは想像に難くない。さてその飯田線に、中井侍(なかいさむらい)という、ちょっと変わった名前の無人駅がある。長野、静岡、愛知の三県の県境あたりに位置する駅である。 と、なんだか紀行文のように始まったのだけれど、別に私はこの中井侍に行ったことがあるわけではない。飯田線にも乗ったことはない。ただ、ある精神医学誌の論文にこの地域のことが載っていたので、ちょっと興味を惹かれただけであ
■追記 なんだか社畜選別方法だとか言われていますが、そうなのかもしれません。 ただ以下のことが自己分析ののちに実体験として語れる学生は入社してから伸びることが多いです。タイトルにもありますがこれは新卒文系が内定を取るための方法です。文系の新卒の8割はモラトリアムを満喫しただけで単位のための勉学しかしていません。その子たちが急に就職活動に挑むとなった場合大体玉砕することになります。ですがその子たちが空っぽなのかと言われればそんなことはないですし、当然モラトリアム中という18~20歳ぐらいまでの間に体験、経験したことはその人の人間的成長を語る上では外せない時期となっています。だからこそそこをうまく就職活動で見せられるような人が欲しいのです。わざわざエントリーシートでこの子はどんな子なんだろう、なんて思いを馳せるのは無理なので。(追記終了) http://anond.hatelabo.jp/20
2007年10月からデルタGという主に性差別問題を扱うサイトで「いぬのえいがひょう」というコーナーを連載していました。 映画評という名ではあるものの、映画評論が目的ではなく、その映画にこじつけて、差別反対を語っていたことが殆どでした。 それはあくまでも差別反対であって人権擁護の考えはありませんでしたが、デルタGの特性上、人権というものに興味があるかたや人権擁護活動をしているかたがアクセスすることが予想できたため、当初は既存の人権思想に近い書き方をしていました。 人権擁護に、賛同することは書いていたつもりはないけれど特に反対もしていませんでした。 当初から、連載の最後には、書こうと思っていたことがありました。 2009年7月の最終回は、予定通り、その内容にしました。 それがこちら。 人権という差別思想 [いぬのえいがひょう] vol.088 エレファント・マン (1980) The Elep
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
少しばかり環境を変更。 プロバイダのDNS脆弱性がかなりアレげだったのでOpenDNSに変更してみた。 今のところ、とりたてて不都合はない。 はてなアンテナが満杯になっていたので、批評系サイトをまとめてサブアカウントのアンテナに移した。 これについてはRSSに移行することも考えている。 ヲタク・サブカル圏における、作品と自己、あるいは作品と状況論を絡めて語る、いわゆる「なんちゃってカルスタ」という批評の方法論は、ヲタが「自分とは何者であるのか、自分はどのような状況と立場にいるのか、そしてどこに行くのか」という問いとして存在する。それは状況の把握と立ち位置の確定により、世界を把握し、それとの関係性を模索する試みである。もちろん、そのような方法論は不完全かつ歪であるのだが、しかしそれでもなお、一定の意味を持っている。 過去においてそれは文学の役割だったのだが、文学がそのような役割を果たしえたの
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