固有性を愛するということについて*1。「彼のどこが好きなの?」と問われた女の子がいるとする。女の子はしばらく思案したのち、あれやこれやと彼の属性を列挙した挙句、「その全部を愛してる。でもその全部がなくても愛してる」と発言したと仮定する。(A)「その全部を愛してる」と、(B)「でもその全部がなくても愛してる」は、一見互いに排他的であるように見えるけれど、よくあるノロケ話として僕らはこれを日常的に理解できるし、実際そうしてもいる。ではなぜ排他的ではない、といいうるのか。もし、立川健二のいうように、“「愛する」という行為は、固有性(固有名)を愛することである”とするなら、これを敷衍して女の子のセリフに当てはめると、それは二つの「固有性」、(A)「固有性≒特徴的な属性」、(B)「固有性=特徴的な属性に還元されない単一性・特異性」を意味していると理解できる。混同しやすいので、ここでは「固有性」という
名前の「指示」と同一性について、クリプキの講義を書籍化したもの。 もとが講義であるために、厳密な論証が続くというわけではなく、口語体での説明が書かれている。それ故の読みやすさと読みにくさがある。 フレーゲ−ラッセルから続く「記述説」に対する反論がなされていくわけだが、それに先だって、まず「アプリオリ」「アポステリオリ」と「必然的」「偶然的」といった概念の整理がなされる。 クリプキは、ともすると同義語と使われがちな「アプリオリ」と「必然的」という言葉は区別されなければならないという。「アプリオリ」とは認識に関わり、「必然的」とは一種の形而上学に関わる語である。アプリオリに知られる偶然的な知識もあれば、アポステリオリに知られる必然的な知識もある。後者の代表的なものは数学についての知識である。数学の定理の証明などは、アプリオリに知られることはない。計算などを通じて、アポステリオリに知られる。例え
●カフカ 読む。 1)テキストの説明 「審判」の説明 ー 訴訟、プロセス ー その9章で登場。他に田舎の医者という短編集の中で、「法の門前」という題名で再録されている。 永遠に上級審に至りつかない訴訟のプロセス。始まりも終わりもない訴訟。恥辱だけが残る。 この作品は、このプロセスを入子状に表現したもの。 2)いかにして読むか。 解釈の問題。解釈それ自体は絶望の表現である。 ー法の超越。内面性(なにもしない)。罪悪感。 ーオイディプス的解釈。父としての法。結婚という法(門番としての父。「判決」) ー官僚制 いずれにせよこれらさまざまな領域で同じ問題が生じていることは確認しておかなければならない。 カフカの批判:受動性。被告人も見ない。法を必然と受け入れる。虚偽が世界の法にされるわけだ、と言いながら、真実の世界をあばこうとはしない。 K-訴訟 男ー掟 (カフカ)ー法 読者ひとりひとり──テキス
〜これは、「法の支配って何?」シリーズ1、2、3、4、5、6(上)からのつづきものです。〜 ★チャーチルのパラドックスとは?:脚注を参照下さい。⇒ *1 前回はパラドックスの1.についてやりました。今日は、2.の「この命題を最上級で定式化したとたん、民主主義もやがて「A集合においても最悪」となるだろう」について中心に、やっていきます。 マルクスによる、「イデオロギー信仰」分析 ―ヒューマニズムにおける問題 まずは、ごひいきさん掴むため、漫画から掲げることに。 この漫画では、<法>一般の効力の仕方の説明を、貨幣の話に置き換え描いてる。元々マルクスの論も、貨幣論として論じられている。(ていうか「法」だと絵に起こしにくいんだYO) また、「宗教」とか「イデオロギー」に内容すげ換えても「可」なくらい、一般性備えた論理、と知っていただきたい。 最初に、ある、テレビCM作りのパターンをイメージして欲し
→紀伊國屋書店で購入 「待望の神話分析の一冊目」 レヴィ=ストロースの『神話論理』の邦訳の刊行がやっと始まったことを祝いたい。原著が一九六四年の刊行であるから実に四〇年後の翻訳出版ということになる。ぼくは半ば諦めて、安価に入手できる英訳本四冊をセットで購入していたが、やはり日本語は読みやすいし、動物の名前など、英語ではかなり面倒だった。最後まで順調に刊行されることを願っている。 レヴィ=ストロースの神話解読の方法の概略は、『構造人類学』などでも示されていたが、ここにやっと本格的な分析が手にできることになった。レヴィ=ストロースは本書ではそれを音楽のコードとの類比で説明している。それぞれの章も「主題と変奏」(これは「ポロロの歌」「ジェの変奏」「行儀作法についてのソナタ」「短い交響曲」「五感のフーガ」「オポッサムのカンタータ」で構成される)、「平均律天文学」(これは「三声のインベンション」「二
本論は、ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』(1928)の実験的解釈をとおして、ヴァイマール共和国期ドイツの文芸ジャーナリズムにおけるベンヤミンの批評活動の意義を明らかにするものである。『一方通行路』の解釈にあたっては、ベルント・ヴィッテが論文「ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』――パリ・オペラ座パサージュとベルリン・アレクサンダー広場のあいだで」(1992)のなかで原案を提出した方法的仮説を発展的に適用し、また、『一方通行路』と深く関連する1920年代後半のベンヤミンの書評・エッセイを適宜参照する。アカデミズムと訣別した知識人における文芸ジャーナリストとしての生(「生の構築」)と批評活動(「文学闘争」)のあいだの内的連関を重視する本論は、ベンヤミンの政治的批評の概念についての研究であると同時に、ヴァイマール共和国期ベンヤミンの政治的伝記としての性格をあわせもつ。 本論は、第1章「カプ
network styly* 経由、鈴木謙介氏のブログ。 http://www.socion.net/soul/index.php?blogid=1&archive=2003-10-22 charlie、ブログひとつにまとめろよ!面倒だよ!……とかいうツッコミはともかく、2ちゃん(形式=自己目的化)とはてな(内容=内輪化)の対比については、さすが、鈴木さん。明確です。これはやはり、シニシズムと動物性の対比でもあるんでしょうね。 ただ「内輪化」についてひとこと。このあいだの同村分析を見ても思ったのだが、実際のところ、はてなはそんなに内輪化しているのだろうか? 東浩紀村とかいうけど、同村以上と認定されたひとがそれほど多いわけでもない。むしろ、僕の実感では、現実の内輪化以上に、「内輪化している」という過剰な自意識のほうが進んでいる。しかもそういう言説は、はてなユーザーでないひとによっても語られて
クリプキ批判と「規則に従う」の発見 しかしクリプキの主張をみてみると、§201の後半をまるまる無視していることが分かる。それを見てみるとクリプキが言及するような懐疑論的パラドックスや懐疑論的解決など主張しておらず、逆にウィトゲンシュタインは明確にそのパラドックスは「誤解」を基としていると言い、その考えを排除している。 ・しかし「此処には、一致も不一致も存在しない」と言うとすれば、そこには、ある誤解がある。このことは、我々はその思考過程において解釈に次ぐ解釈をしていると言うことの中に、すでに示されている。このことを通して我々が示すことは、こうである:規則のある把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」といい「規則に反する」と言うことの中に現れるものである。(§201) このようにクリプキが言うパラドックスやそれの解決方などはウィトゲ
ウィトゲンシュタインのパラドックス (クリプキによる解釈) 懐疑論的問題(Sceptical problem) ウィトゲンシュタインは(§185)においてある奇妙な数列の問題を提示する。ある教師が2,4,6,8…という数列を教えていた。しかしある生徒が100を超えてから、98,100,104,108…という法則と異なった数列を言い出した。この例が示すことは、この生徒に彼の誤りを言葉で説明できないということである。生徒にとっては上記の数列が「自然」であり「規則的」なのである。我々が98,100,102,104…という数列を自然であると感じるのと同じように生徒も98,100,104,108…という数列が「自然」なのであり、その状態を自然に感じ何の疑問も抱いていない。また、教師は自分に対して生徒が間違っていること を説明できない。我々は100+2=102であるという確信をもつが、その確
この記事の目次 外観 装丁や文体(?)に関して 全体要約 本書の全体について 「メタリアルフィクションの誕生」との比較 本書のもとになった連載記事との比較。特に、削除されてしまった柄谷行人に関する議論について 大塚英志 本書と大塚英志の関係 コミュニケーション 本書と宮台真司の関係 自然主義的読解と環境分析的読解あるいはポップ文学とメタリアルフィクション 本書と仲俣暁生の関係、並びに阿部和重を環境分析的読解する試み メタ物語的な詐術とセカイ系と青春小説 「オタク」の生を肯定するか否か、あるいはポストモダンの実存文学としてのメタリアル青春小説?? 自分の考えとの接合 個人的なメモに近いが、自分の理論と本書の関係 「限界小説書評」「小説の環境」 本書に関係する、若手の評論の紹介 外観 本書の内容について入る前に、いくつか。 講談社現代新書はリニューアルに伴って明らかに装丁が悪くなったが、本書の
京都大学人文科学研究所共同研究 「虚構と擬制――総合的フィクション研究の試み」 (班長:大浦康介/2005年4月〜2009年3月) 本研究は、従来文学、哲学、論理学、法学などの分野で行なわれてきたフィクションの研究を相互に関係づけるとともに、美術や音楽、歴史学、 人類学、自然科学などの諸学問における同種の概念の有効性を検討し、あわせて総合フィクション学(General Fictology)とでも呼ぶべきディシプリンの構築をめざすものである。 文学における虚構(小説、演劇)、映画やテレビドラマ、種々のゲームや子供の「ごっこ」遊び、様相論理学があつかう可能世界、民法などでいう擬制、歴史記述の物語性と「うそ」、宗教儀礼の仮構性、自然科学の真理探求における作業仮説やメタファー―――それらの共通点と違いはなにか、またそれらを貫くフィクション概念の定立は可能か。 4年の期間内に、先行研究の整理
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ある芸術家の伝記(biography)を書くこと、つまりその人の「生(bios)」を文字にとどめようとする営みは、作品と生との関係をめぐる問いを含まざるをえない。現実と作品との単純な反映論に飽き足りなさを感じる伝記作家にとって、精神分析はそのための強力な武器となる。 一方、美術史にフロイトやラカンの理論を導入することにより、モダニズム美術の分析にあらたな展望を開拓してきた批評家がロザリンド・クラウスである。作品の形式的構造自体のなかに無意識の論理を読みとるその議論は、伝記的な応用精神分析とは対照的だ。しかし、そこで見出された構造は時として、汎用の図式と化してしまう危険を孕んでいた。 クラウスの『ピカソ論』(青土社)は、数多くの伝記がものされてきた画家を主題とし、精神分析を以前よりもはるかに慎重に援用しつつ、伝記という言説それ自体を反省的な考察の対象としている。ジッドの『贋金使い』をめぐる記
Einerseits, nach Husserl, "Sinn" ist das zentrale Element der Intentionalitat. Andererseits, nach Luhmann, die Umwelt ist fur psychische und soziale Systeme in der Form "Sinn" gegeben. So "Sinn" ist der Hauptbegriff fur Husserls Phanomenologie und fur Luhmanns Systemtheorie. Die Aufgabe dieses Aufsatzes besteht darin, den Zusammenhang des Sinnbegriffs in der Phanomenologie Husserls mit dem in der
★人種の戦いのディスクールの位置[1/28-2] 伝統的な歴史のディスクールに対抗するこの反歴史のディスクールは、まずそれまでの中世のローマ的な伝統に対する異議の申し立てという形を取った。フーコーはここでデュメジルの神話論に依拠しながら、インド=ヨーロッパ語族とローマの社会構造が、主権者の第一機能、戦士の第二機能、繁栄と豊穣の第三機能に分割される形で形成されていたとすると、新しい歴史のディスクールはこのような三分法ではなく、「われわれ」と「彼ら」という二分法で形成されていることを指摘する。主権者と臣民、富んだものと貧しいもの、侵略者と被征服者との対立が、それまでの安定した社会構造を転換させる批判的なディスクールを持ち込むのである。 フーコーはここにおいて、インド=ヨーロッパ語族の歴史性の終焉が始まると考える。これは中世のかなり遅くの時期まで続いていた「ラテン中世」的な伝統概念の終焉であり、
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