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2015年1月15日のブックマーク (5件)

  • 陵墓発見?女帝と女帝に挟まれたエアな舒明天皇の死後に起きたこと

    舒明天皇の墓が見つかった!!(NHK) おおー!すげえ!もんげー! で、誰? という人がほとんどではないでしょうか。推古天皇と皇極(斉明)天皇という二人の女傑、いや女帝に挟まれた飛鳥朝の天皇(第34代)です。 13年間(629~41年)も在位していながら、国史大辞典で<在位中に第一回遣唐使の派遣(二年)、唐使の来朝(四年)、百済宮および百済大寺の造営開始などのことがあったが、大臣蘇我蝦夷・入鹿父子の全盛期に際会し、さしたる事蹟を残すことなくして十三年十月九日崩じた>と低評価される始末。 葬儀は「百済の大殯(もがり)」とよばれるほど盛大に行われて、滑谷岡(なめはざまのおか)という現在は場所不明のところに葬られました。その後、皇后の皇極天皇の時代に、押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)という奈良県桜井市忍阪にある上円下方墳に改葬されたと見られています。 今回見つかった一辺50~60メートルという

    emiyosiki
    emiyosiki 2015/01/15
    舒明(じょめい)って誰?という声があったので時代背景書きました
  • 大規模な石敷き遺構を発見 舒明天皇墓か NHKニュース

    奈良県明日香村で7世紀の飛鳥時代に造られたとみられる大規模な石敷きの遺構が見つかりました。調査した研究所は中大兄皇子の父親の舒明天皇を葬った飛鳥時代最大級の古墳の一部の可能性があるとみて調べています。 奈良県立橿原考古学研究所が去年11月、明日香村にある県立学校の敷地で発掘調査を行ったところ、大規模な石敷きの遺構が見つかりました。 細長い「ほり」の形をしていて底の部分は幅およそ4メートル、長さは確認されただけでおよそ48メートルに及びます。 底の両側は緩やかな斜面になっていて、底と一方の斜面には直径20センチから60センチほどの数多くの石が敷かれ、上から底までの深さは1メートルほどありました。 また、もう一方の斜面は板の形に加工された石が階段のように10段、積み上げられていました。 研究所によりますと、板状の石が積み上げられた斜面は古墳のすその部分で横に「ほり」があったと推定され、石の材質

    emiyosiki
    emiyosiki 2015/01/15
    記事書きました→ 「陵墓発見?女帝と女帝に挟まれたエアな舒明天皇の死後に起きたこと」 http://bushoojapan.com/?p=40169
  • カツイエ.comで取材申し込みして、ホントに『作家・柴田勝家さん』に取材してきました!!(1) | カツイエ.com

    キャラが濃すぎる新人作家として話題になった、『ニルヤの島』の作者『柴田勝家』さん。 昨年、早川書房開催のSF小説の公募賞「ハヤカワSFコンテスト」第2回の受賞者さんなのです。 受賞コメントも「ワシ」と戦国言葉。キャラ設定はどうなってるの?柴田勝家が乗り移った設定?というか、そもそも勝家の何が好きなの? そんな勝家ファントークを、柴田勝家先生としたい!! ということで、ダメ元で取材申し込みしてみたところ、ご快諾いただき取材しに行ってきました。 柴田勝家先生、かなーーーり面白くてステキな方ですよ!! 取材前 カツイエ.comの、当然押し武将は柴田勝家です。 取材対象は「柴田勝家」的なキーワードがドンピシャであれば、あるほど話を聞きたくて聞きたくてたまりません。それがこの媒体のアイデンティティなんですから! というか、カツイエ.comが行かなくて誰が行くんだ(我ながらアホな発想)と思った瞬間、早

    emiyosiki
    emiyosiki 2015/01/15
    カツイエが勝家を取材
  • 京(みやこ)を描く -洛中洛外図の時代- - 京都府京都文化博物館

    首都京都の全景を一双の屏風に描く洛中洛外図屏風は、16世紀初頭に登場します。現実の都市社会を題材に、権力者の政治体制から京都町衆の生活の一齣こままでを生き生きと描き、応仁・文明の乱から復興し、新たな近世都市へ向かう京都の姿を活写しました。その後、この洛中洛外図は江戸時代を通じて制作され続け、都市の変化に応じて、多様な要素を盛り込みながら展開していきました。 展では、国立歴史民俗博物館の国内有数の洛中洛外図屏風コレクションを中心としながら、醸成される京都文化と都市のありようを絵画、文献、考古資料など、多様な資料を用いて紹介致します。 基情報 京みやこを描く―洛中洛外図の時代― 会期平成27年3月1日(日)~4月12日(日) 前期展示:3月1日(日)~3月22日(日) 後期展示:3月24日(火)~4月12日(日) *会期中展示替えあり 休館日:毎週月曜日 会場京都文化博物館 4・3階特別展

    emiyosiki
    emiyosiki 2015/01/15
    3月1日からメモメモ
  • 信長と義昭「幻の上洛計画」織田はいつから天下を狙っていたのか

    将軍をサポートしたことで細川藤孝や明智光秀との関係も深くなり、織田家の躍進が始まるため、この1568年は織田家にとって大きな年となりましたが、実はその2年前にも、実行直前で断念した【幻の上洛計画】がありました。 それを示す書状が見つかり、大きな話題となったのです。 書状とは、熊県立美術館らが発見したもの。 『信長からの手紙』展を準備するため関連資料を精査していたところ、同館と熊大永青文庫研究センター、東大史料編纂所の共同調査で確認されました。 なぜ今頃になって「発見」とされたのか? というと以下の図録にあるように「紙の裏側」に書かれていたからです。 正確に言えば、一度使った書状を後で再利用したため、裏側に記録が残されていたんですね。 少し詳しく見て参りましょう。 2年早い信長「幻の上洛計画」まずは展示図録「信長からの手紙」から、その解説を引用してみますね。 <初公開の一色藤長・三淵藤英

    信長と義昭「幻の上洛計画」織田はいつから天下を狙っていたのか
    emiyosiki
    emiyosiki 2015/01/15
    このとき上杉謙信が上洛していたらどうなっていたかな?