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ねことか肉球とか:「神島二郎の近代日本『精神構造』の分析」
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ねことか肉球とか:「神島二郎の近代日本『精神構造』の分析」
シリーズ・大嶽秀夫を読む(44)。 後に加筆修正のうえ、『戦後政治と政治学』(以下「同書」という。)... シリーズ・大嶽秀夫を読む(44)。 後に加筆修正のうえ、『戦後政治と政治学』(以下「同書」という。)の第I部第5章に収録された。 既に触れてきたように(参考1・2)、同書には戦後政治学を批判する側面だけでなく、これを継承する側面があることは重要である。この観点からすれば、神島二郎を扱った本論文でも同様に、そうした継承の側面を指摘することができる。 そうした継承の具体的内容を見ることも重要だが、ここでは問いを一歩進めて、「なぜ大嶽は神島を批判しながらも、継承しているのか?」ということを考えてみたい。そして実は、この継承のロジックの中に、大嶽の採用する方法――パターン認識――の特徴が現れているように思える。 大嶽の神島への批判は、その民俗学的方法の実証性への疑義が中心である。例えば大嶽は1979年で既に、「検証の可能性という配慮から全く自由に理論構成を試みた」業績の一つとして、神島の論文「磁場