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『大衆食堂の研究』激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道 昭和三〇年代の大衆食堂
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激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道 *四、昭和三〇年代の大衆食堂* ●大衆食堂の出直し● 昭和二五年... 激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道 *四、昭和三〇年代の大衆食堂* ●大衆食堂の出直し● 昭和二五年、朝鮮半島で戦争が始まると日本は成金になる。一気に経済復興にはずみがつき、もう統制だの配給ではないだろう。戦後の、外食券食堂時代から民生食堂時代への移行は、昭和二六年である。 食堂は勝手にやれ、というのが東京都の本音なのだろうが、そうはいわないところが役所の奥床しさ。いちおう、ま、食糧難の時代には民間を利用していたわけだし、体裁よく縁切りしなくてはと、わずかな補助金とヤミ米が手に入りやすいという利権をつけて東京都指定民生食堂という制度をつくり、そこに外食券食堂を解消することにした。この「外食券食堂」といわれた東京都食堂協会の時代から、東京都指定食堂協同組合の「民生食堂」への流れは、昭和三〇年代の大衆食堂へとつながる。 まだ、食堂における米飯販売は自由でなかったから、東京都指定食堂協同組合へ