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明治版「防衛3文書」から見る日本人の〝精神主義〟
戦前日本は1931年の満州事変という大きな転機を経て、日中戦争、そして破滅的な太平洋戦争へと突き進む... 戦前日本は1931年の満州事変という大きな転機を経て、日中戦争、そして破滅的な太平洋戦争へと突き進むことになる。その過程で旧日本陸軍が大きな役割を果たしたのは間違いないが、ではその「軍の暴走」の下地はどのように整えられたのだろうか。明治から満州事変まで、旧日本陸軍の「変貌」をたどってみよう。 明治維新以来、日本にとって最大の安全保障上の脅威はロシア帝国であった。日露戦争(1904~05年)はその宿敵を打ち破り、日本を一躍列強の一員に押し上げた転機となった。しかし、帝国陸海軍が安全保障に関して安息することはなかった。 日露戦争後、帝国陸軍は戦後の内外情勢に対応すべく新しい安全保障政策を模索することになる。陸軍が憂慮していたのはロシアとの再戦であった。特に陸軍長老の山県有朋はロシアの復仇戦を恐れていた。山県は日露戦争を参謀総長として指導した経験から、戦争末期、日本の戦力が限界に達していたのに対
2022/12/06 リンク