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中里一日記: 本田和子『子どもが忌避される時代』(新曜社)
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中里一日記: 本田和子『子どもが忌避される時代』(新曜社)
本田和子『子どもが忌避される時代』(新曜社) 本書には大きな違和感を覚えたので、途中で読むのをやめ... 本田和子『子どもが忌避される時代』(新曜社) 本書には大きな違和感を覚えたので、途中で読むのをやめた。 著者はあまりにもしばしば、自分の「感覚」「体感」のみを根拠として、その自分の「感覚」「体感」を書いている。人間のすることはみなどこかで必ず本人の「感覚」「体感」につながっているが、それ以外の根拠を持たない行為はたいていが個人的なものだし、公の行為としては胡散臭い。著者の主張が間違っているとも的外れとも思わないが、なにしろ根拠がしばしば本人の「感覚」「体感」だけなので、「それは間違ってさえいない」という次第である。 というわけで以下は私の「感覚」「体感」を書く。 「子ども」の出生に関しても、またその養育に関しても、徹底した自己決定権が行使可能だとすれば、「産まれてきた子ども」もまた、両親の意志と決断の産物として、「親に属す者」とされざるを得ないからである。眼前にいるこの「子ども」は、自分た