エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
特別展覧会「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」 - 文化財のトビラ - 文化庁広報誌 ぶんかる
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
特別展覧会「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」 - 文化財のトビラ - 文化庁広報誌 ぶんかる
慶長5年(1600)に勃発(ぼっぱつ)した関ヶ原の合戦。豊臣から徳川へと天下の趨勢(すうせい)が傾いた... 慶長5年(1600)に勃発(ぼっぱつ)した関ヶ原の合戦。豊臣から徳川へと天下の趨勢(すうせい)が傾いたこの出来事以降,武士はもとより,絵師もまた,生き残りをかけた戦いを繰り広げました。特に権力者層と密接に関わってきた狩野派にとってこの時期は,棟梁(とうりょう)・永徳(えいとく)の死や,ライバル・長谷川等伯(はせがわとうはく)の台頭(たいとう)など,一門にとって最も苦しく,また難しい判断を下さなければならない激動の時代でした。頼るべき権力者を読み誤ることは,そのまま自派の滅亡へと繋(つな)がりかねなかったといえましょう。 そうした極限の状況下で,狩野派は画期的な策に打って出ました。すなわち,世にいう三面作戦です。例えば,豊臣には門弟の山楽(さんらく)や内膳(ないぜん),徳川には長信(ながのぶ)(永徳の弟)を,更に朝廷には宮廷絵所預(きゅうていえどころあずかり)の地位についた孝信(たかのぶ)(