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3 バロウズとフーコー(前編) ──タンジール、1954年
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3 バロウズとフーコー(前編) ──タンジール、1954年
ダニエル・ドフェールが作成したミシェル・フーコーの年譜をぼんやりと眺めていたところ、次のような記... ダニエル・ドフェールが作成したミシェル・フーコーの年譜をぼんやりと眺めていたところ、次のような記述に目がとまった。記された日付は1984年の4月6日、ということはフーコーの死の約三ヶ月前のことである。 自宅で、詩人ブライオン・ジェイシンを伴って訪れたウイリアム・バロウズを迎えてパーティー。これが最後のパーティーとなる。[1] 年譜によれば、この日付から約二ヶ月後の6月3日にフーコーは発作を起こし、意識を失う。弟のドゥニの手配で自宅の近くサン・ミシェル病院に搬送されたのち、サルペトリエール病院に入院する。一時は小康状態を保ち、刷り上がった『性の歴史』第三巻『自己への配慮』を病室で受け取ったりしている[2]。だが容態が急変し、同月25日13時15分、息を引き取った。享年57歳。 フーコーの生涯を取り巻く数々のエピソードの中で、上述のウィリアム・バロウズとのエピソードは、些細な、取るに足らないも