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第1回 「わかる」から「わかった気になる」へ
ニュースを見て「わかる」こととアートを「わかる」ことには違いがある。この連載では、社会問題を扱っ... ニュースを見て「わかる」こととアートを「わかる」ことには違いがある。この連載では、社会問題を扱った現代アートの批評を軸としながら、「なぜアートを介する必要があるのか?」「他者の問題をわかるとはどういうことか?」を考えていきます。 アートや写真について文章を書く仕事をしているくせに、美術館やギャラリーに行くことが楽しみというよりもちょっと億劫である時が、実は結構あります。この億劫さの原因として、知り合いの誰かに久しぶりに会ってしまったときにうまく世間話ができるだろうかなどと考えてしまうとか、会場で歩いて、立ち止まって、を繰り返すのが、自分の体力がないせいですごく疲れてしまうことが行く前からわかっているからといったことがあげられます。でも、何よりもアートを見ることを億劫にさせるのは、アートを見て、自分の知識不足なのか、集中力の無さなのか、あるいは作品のクオリティやコンセプトのせいなのか…理由は