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イデオロギーとしての科学 (4)
こうしてカルナップは神とか理念とか自我とか本質等々の形而上学的な語が意味を欠いていると断言し、こ... こうしてカルナップは神とか理念とか自我とか本質等々の形而上学的な語が意味を欠いていると断言し、これらを含む形而上学の命題がにせの命題であると宣告する。 しかし観察経験を表すプロトコル命題とは何であるのかについて意見がまちまちであり、最終的な答えがないことをカルナップ自身が認めており、この根本の点が動揺しているのである。直接的な観察経験の場の中での所与ということが感覚・感情の性質のことを指すのか或いは体験全体及びそれらの間の類似関係を言うのか、更には事物のことを意味しているのか、諸説紛々だというのである。感覚経験に戻るだけでは我々の人間的経験の世界が余りにも狭められ、これを原則としたのでは多くの語が意味を欠いたり歪められたりしてしまうことは明らかであろう。したがって感覚経験を基礎にする形而上学批判はやがて実証主義の展開の中で捨てられたのである。しかし物理的な事物を基礎にする場合でも事情は同じ