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死と向き合う?
死ぬことに思いをめぐらし思索を深めるのももちろん死に向き合うことではあると思う。なんとなく僕の中... 死ぬことに思いをめぐらし思索を深めるのももちろん死に向き合うことではあると思う。なんとなく僕の中ではこちらのイメージだった。 でも、思索や論理ではなく、とことん楽しく充実した日々を過ごして概念的な「死」を論理的に考える必要も意欲もないような晴ればれした日々を送ることも向き合うことのひとつなのかなと思った。 そうした充実した日々のふとした時に、「いつかはこの素晴らしい日々ともお別れしなくてはいけないのか」と終わりを予期し、それでも人生を楽しくやっていくことは十分に死や生を傍らに置きつつ乗り越えていっている気がするからだ。 しかし僕のような頭でっかちな人間の場合、論理的なもの伴わない日々というのは体感として充実してないわけで、理論と実践の両輪の大切さというか、頭を使って初めて充実し得る。