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後期江別文化の展開 - 江別創造舎
活動コンセプト 「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」 「地域が生き、地域が活かされる人(... 活動コンセプト 「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」 「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」 後期江別文化(坊主山式土器群期)には、分布領域を広げ、さらに大規模な遺跡を残すようなりました。 後期江別文化を代表する遺跡は、坊主山遺跡です。石狩川を見下ろす古砂丘上にあり、1,000基以上の墓が残されていたといわれます。 昭和初年より河野広道・名取武光・後藤寿一らによってたびたび調査されてきましたが、昭和35(1960)年、この場所に北海道電力の火力発電所が建設されることになり、当時北海道学芸大学教授だった河野広道に率いられた同大学生が同年9月から11月にかけて5回にわたって一部を発掘調査し、その時の出土品が江別市郷土資料館と旭川市郷土博物館に保管されています。 前期江別文化の広がりは、ほぼ道央部に限定されたものでしたが、後期になると全道一円がその範囲に含まれ、最盛期には東は