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当事者としての「私の死」を現代哲学の視座で探究すると――宗教なき時代に「死」を見つめて(後編)|じんぶん堂
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当事者としての「私の死」を現代哲学の視座で探究すると――宗教なき時代に「死」を見つめて(後編)|じんぶん堂
記事:春秋社 アルブレヒト・デューラー「ネメシス」(部分) 書籍情報はこちら 死ぬと無になるのか ―― ... 記事:春秋社 アルブレヒト・デューラー「ネメシス」(部分) 書籍情報はこちら 死ぬと無になるのか ―― 現代哲学からの分析 本書の到達点をあらかじめ示しておくと、それは、人間が死後において完全な無に帰すことを否定するものである。たしかに、死によってわれわれの身体はすべて解体し、その材料であった分子や原子も宇宙に撒き散らされる。とくに脳の解体は、生きていた時代に経験した様々な出来事の記憶の消失と、固有な人格を形成していた感情、知識、意志に関わる特質の消失を意味するであろう。しかし、その上でもなお、自分が生あるときに保持していたあるものが、死後にも残存すると本書では主張しようとする。いったい、何が残るというのだろうか。 ここでわれわれは、英語圏の哲学で議論が展開されている「心の哲学」に目を移したい。現代の脳科学の進歩はすさまじく、近い将来には人間の精神活動はすべて自然科学の用語で説明できるよう