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相馬俊子は巨大古墳の丘上に立ったか。(下): 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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相馬俊子は巨大古墳の丘上に立ったか。(下): 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落... 新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 新宿停車場の西口を出ると、少なくとも1910年(明治43)まで淀橋浄水場との間に、東側がまるで丸山ないしは摺鉢山と名づけてもよさそうな、こんもりと繁った小山が目の前にあった。この小山は、当時までクッキリとした“鍵穴”型をしており、後円部の直径は約70~80m、前方部の長さは約50~60mほどで、現在の新宿駅西口バスターミナル前にある明治安田生命新宿ビルの敷地から、新宿郵便局の敷地に丸ごとかぶり、工学院大学のキャンパス南東部あたりまでつづく巨大な墳丘だった。ただし、古墳の上部は平らに削られ、上野摺鉢山古墳Click!と同様に後円部の墳頂が、庭園の見晴台のように整備されていた可能性が高い。それは、松平摂津守下屋敷だ