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原発事故と科学認識論――金森修「認識論とその外部:汚染と交歓」(『哲学』第64号、2013年4月、日本哲学会)を読む - clair-de-luneのブログ
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原発事故と科学認識論――金森修「認識論とその外部:汚染と交歓」(『哲学』第64号、2013年4月、日本哲学会)を読む - clair-de-luneのブログ
著者からご恵与いただいた論文抜刷、金森修「認識論とその外部:汚染と交歓」(『哲学』第64号、日本哲... 著者からご恵与いただいた論文抜刷、金森修「認識論とその外部:汚染と交歓」(『哲学』第64号、日本哲学会、2013年4月、pp.25-41)を読む。この論攷は日本哲学会第72回大会シンポジウム「知識・価値・社会――認識論を問い直す」(2013年5月11日開催)のために書かれた予稿のような性格のものである。重要な論文なので、まず内容をやや詳細に紹介する。 本稿で問題となるのは、「科学」、「認識論〔科学についての哲学的検討〕」、「認識論の歴史」の関係である。そしてこの考察の背景には、科学と認識論(史)への再考を迫る出来事であった2011年3月11日の震災による福島第一原発の大事故がある。 近代以降の認識論は、完全に自律的な領域であったというより、自らの外部にある科学を対象とし、また科学との間の類比関係・差異・距離感を見極めることで、自らの価値を模索してきた。いわば認識論は〈理念的な鏡〉として科学