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第100回 なぜキャラクタを考えるのか?(下) | 日本語社会 のぞきキャラくり(定延 利之) | 三省堂 ことばのコラム
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第100回 なぜキャラクタを考えるのか?(下) | 日本語社会 のぞきキャラくり(定延 利之) | 三省堂 ことばのコラム
なぜキャラクタを考えるのか? 日本語教育と言語研究の観点から、その理由を述べてきた(第98回・第99... なぜキャラクタを考えるのか? 日本語教育と言語研究の観点から、その理由を述べてきた(第98回・第99回)。言語研究と重なる部分があるが、最後に、コミュニケーション研究の観点からも付け足しておこう。 大人と子供の会話。子供が「だから、んーと……」のようにことばに詰まると、大人が「じゃあ、こんどの子供会に出るのはやめとくか」と助け船を出し、子供が得たりとうなずいたとする。 こういう会話について「子供の発言は言いよどまれており、流ちょうと呼べるものではなかったが、実は子供はこのしゃべり方で、大人からの支援を呼び込むことに見事に成功したのである」などと分析されることがあるかもしれない。(いや実際、あったりする。)こういう分析は、一面の真理をついている場合もあるだろうが、常にそうとはかぎらない。子供は大人の支援を呼び込む意図などなく、ただただ途方に暮れてことばに詰まったのであって、仮にこの会話直後に