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最後の被爆地・長崎出身の私が家族に聞いた「数十年後に表れた原爆の恐怖」(山脇 りこ)
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最後の被爆地・長崎出身の私が家族に聞いた「数十年後に表れた原爆の恐怖」(山脇 りこ)
毎月第1&第3木曜日に公開している連載「ごきげんは七難かくす~50歳からの養生日記」。料理家の山脇り... 毎月第1&第3木曜日に公開している連載「ごきげんは七難かくす~50歳からの養生日記」。料理家の山脇りこさんが食をはじめとする健康についての知己を伝えてくれています。8月15日の今日は木曜日ですが、連載とは別に、本日どうしても伝えなくてはならないことを綴ってもらいました。 長崎の旅館に生まれ育って 子供の頃、夏はとにかくうちの家は忙しい、と思っていました。生家は旅館で、のちにホテルになってからも、8月は繁忙期。お盆には大きな独特の船をひき爆竹を盛大にならして御霊を送る精霊流しもあるし、なにより、8月9日の原爆の日があるから。長崎県庁にほど近い旅館の正面入口には、8月8日、原水爆禁止日本協議会ご一行様、といった大きなご案内札が立ちました。 長崎の小学校は原爆の日は登校日。私が通っていた、新興善小学校は、長崎県庁と市役所の間にありました。長崎でも1、2の古い小学校で、爆心地からは3キロほどの距離