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北条時輔 - Wikipedia
北条 時輔(ほうじょう ときすけ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の長... 北条 時輔(ほうじょう ときすけ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼の長男で庶長子。8代執権・北条時宗の異母兄。 第6代将軍・宗尊親王の側近として将軍御所に仕え、上洛して六波羅探題南方を務めるが、二月騒動で謀反の疑いを受け、異母弟・時宗の命により誅殺された。 生涯[編集] 庶長子[編集] 宝治2年(1248年)5月28日、時頼の長男として鎌倉で生まれる[1]。幼名は宝寿(『吾妻鏡』)。母は側室で出雲国の御家人・三処氏の娘[1][2]であり、幕府女房であった讃岐局。父・時頼は22歳、第5代執権となって2年目、宝治合戦で勝利した翌年の事である。6月1日に時頼は産所に訶利帝十五童子像を安置した(『吾妻鏡』6月1日条)。同10日には得宗家被官で時頼の腹心である諏訪入道蓮仏が宝寿の乳母父となる。 宝寿3歳の建長3年(1251年)5月15日、時頼の正室・葛西殿を母とする異母
2017/02/18 リンク