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友永英夫 - Wikipedia
友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月6日 - 1945年(昭和20年)5月14日)は、日本の海軍軍人... 友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月6日 - 1945年(昭和20年)5月14日)は、日本の海軍軍人。潜水艦を専門とする技術士官として、自動懸吊装置、重油漏洩防止装置を開発し、2度にわたり海軍技術有功章を受章した[1]。第二次世界大戦中にドイツへ赴き、その帰途でドイツの降伏を迎え、乗艦していた「Uボート」艦内で庄司元三とともに自決。最終階級は海軍技術大佐。 生涯[編集] 真珠湾攻撃で戦死した甲標的艇長岩佐直治。岩佐は友永家を訪問し、潜水艦と甲標的を固縛するバンドの増設を依頼。友永はその依頼に応えた[2]。 現在の釜山広域市に土木技術者の父の三男として生まれた。本籍は山口県。日本に帰国後も父の仕事の関係で住居を転々とし、鳥取一中を卒業。一高理科を経て1929年(昭和4年)に東京帝国大学工学部船舶工学科に進んだ。 東京帝大時代[編集] 海軍は兵科、機関科、主計科について
2013/12/29 リンク