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抜刀隊 - Wikipedia
抜刀隊を描いた浮世絵(錦絵) 抜刀隊(ばっとうたい、旧字体:拔刀隊󠄁)は、1877年(明治10年)の西南戦... 抜刀隊を描いた浮世絵(錦絵) 抜刀隊(ばっとうたい、旧字体:拔刀隊󠄁)は、1877年(明治10年)の西南戦争最大の激戦(勝敗の分水嶺)となった田原坂の戦いにおいて、川路利良が率いる警視隊から組織された別働第三旅団から選抜[1]して臨時に編成され投入された白兵戦部隊。 第一次抜刀隊は植木口警視隊(354名)の中から百十余名を以って3月11日過ぎに編成。第一次抜刀突撃は二俣台地にて同14日早朝敢行、以後戦死者、戦傷者などの減員分を都度補い、第二次、第三次抜刀隊を編成し横平山などでも戦闘。最終的に西郷隆盛(薩軍)の手から田原坂を制圧奪取し、帝国陸軍(政府軍・官軍)進軍の突破口を開いた。 編成[編集] 田原坂の戦いにおいて、西郷軍による斬り込み攻撃により帝国陸軍では死傷者が続出した。帝国陸軍は人数では薩摩軍を圧倒していたが、武士・軍人としての教育を受けた士族は兵を統率する指揮官であり、兵士は主に