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昆陽の戦い - Wikipedia
昆陽の戦い(こんようのたたかい、中国語:昆陽之戰)は、中国新代の地皇4年(西暦23年、または更始元年... 昆陽の戦い(こんようのたたかい、中国語:昆陽之戰)は、中国新代の地皇4年(西暦23年、または更始元年)豫州潁川郡の昆陽(現在の河南省平頂山市葉県)における新軍と緑林軍との間の戦いである。 西暦8年、前漢から禅譲を受けて、新を建国し、年号を始建国元年とした王莽であったが、王莽の採った理想主義・懐古主義的な政策は当時の実情に合わず、次第に各地で反乱が勃発する。中でも赤眉軍及び緑林軍が有力な反乱勢力であった。 ここで南陽豪族の劉玄も緑林軍に加わり、地皇3年(22年)、同族の劉縯・劉秀兄弟も王莽による禅譲を「簒奪」として旗揚げし、やがて緑林軍は農民・豪族連合軍となる。劉縯は、納言将軍荘尤(厳尤)、秩宗将軍陳茂が率いる新軍を撃破して、荊州は宛(南陽郡)を脅かした。この城攻めの間に皇帝として劉玄が立てられ(すなわち更始帝)、劉縯は大司徒に劉秀は太常偏将軍に拝される。 それに対して新は、地皇4年(23年
2015/11/10 リンク