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藤原保則 - Wikipedia
藤原 保則(ふじわら の やすのり)は、平安時代前期の公卿。藤原南家豊成流、左兵衛佐・藤原貞雄の子。... 藤原 保則(ふじわら の やすのり)は、平安時代前期の公卿。藤原南家豊成流、左兵衛佐・藤原貞雄の子。官位は従四位上・参議。 地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ、良二千石と謳われた。 斉衡2年(855年)治部少丞に任官。その後、民部少丞・兵部少丞・兵部大丞・式部少丞を歴任。貞観2年(860年)伊勢斎内親王行禊の後次第司判官となる(この時の官位は正六位上・兵部大丞)。 貞観8年(866年)従五位下・備中権介に叙任され地方官に転じる。飢饉と悪政によって疲弊が甚だしい備中国に赴任した保則は貧者を救い、勧農を大いにする善政を施して立て直した。その後も備中守・備前権守と清和朝中期は地方官を歴任しその治績を大いに称賛され、貞観13年(871年)には治国の功労により従五位上に昇叙された。保則が備前国にあったとき、他国から入った盗賊が保則の善政を聞いて恥じ入り自首した話が伝わる。保則が任を終え