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藤原能信 - Wikipedia
寛弘3年(1006年)従五位上に直叙され、侍従に任ぜられる。右兵衛佐・五位蔵人を経て、寛弘8年(1011年... 寛弘3年(1006年)従五位上に直叙され、侍従に任ぜられる。右兵衛佐・五位蔵人を経て、寛弘8年(1011年)従四位下、長和2年(1013年)蔵人頭兼左近衛権中将に叙任される。 父・道長に似て勝気な性格だったらしく、寛弘6年(1009年)には異母姉である藤原彰子所生の敦良親王(後の後朱雀天皇)誕生を祝う儀式中に、同席した左近衛少将・藤原伊成を罵倒した挙句、加勢した能信の従者によって一方的に暴行を受けた伊成が憤慨して出家してしまうとの事件を起こしている[1]。また、長和2年(1013年)の石清水八幡宮臨時祭の際、前大和守・藤原景斉、前加賀守・源兼澄、祭主・大中臣輔親、前加賀守・藤原為盛、高階成順、蔵人所雑色・源懐信らが牛車の中で奉幣の勅使を見物していたところに、能信が後から現れる。そこで、景斉らが能信に対して近くでの見物の許しを請うたところ、まず輔親と懐信を従者の手で牛車から引きずり出すと、次
2012/10/24 リンク