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関ケ原の戦いの前に鳥居元忠が討ち死にした伏見城
慶長5年(1600年)6月。 徳川家康は、会津の上杉景勝を討伐するために伏見城を発ちました。 これまで徳... 慶長5年(1600年)6月。 徳川家康は、会津の上杉景勝を討伐するために伏見城を発ちました。 これまで徳川家康は、上杉景勝に上洛を求めていましたが、上杉景勝は全く上洛しようとしません。 そこで、徳川家康は、上杉景勝が豊臣政権に対して謀反を企てているとし上杉討伐に動き出したのでした。 石田三成の備えに鳥居元忠を伏見城に残す 出陣する前、徳川家康は家臣の鳥居元忠に伏見城を託すことにしました。 徳川家康が上杉討伐のため東に向かえば、佐和山で謹慎している石田三成が挙兵し、真っ先に伏見城を攻めるのは明らかな状況。 そのため、徳川家康は、伏見城に多くの兵を残しておきたかったのですが、そうすると、上杉討伐のための兵力が減少してしまいます。 そこで、徳川家康は、鳥居元忠に伏見城に置いていける兵はわずかでしかないことを告げました。 これを聴いた鳥居元忠は、ここが自分の死に場所だと悟り、伏見城に残るのは自分だ
2023/08/28 リンク