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戦後75年・浜通りの軌跡:/上 富岡町空襲 旧店舗に機銃掃射痕 原発事故避難、被害資料多く失う /福島 | 毎日新聞
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戦後75年・浜通りの軌跡:/上 富岡町空襲 旧店舗に機銃掃射痕 原発事故避難、被害資料多く失う /福島 | 毎日新聞
空襲で亡くなった鴫原チヨさんの遺品を手にする弘子さん=福島県いわき市で2020年8月13日午後3... 空襲で亡くなった鴫原チヨさんの遺品を手にする弘子さん=福島県いわき市で2020年8月13日午後3時1分、渡部直樹撮影 終戦直前の1945年8月9日。富岡町を襲った連合国軍の機銃掃射で、鴫原弘子さん(89)は大叔母の鴫原チヨさん(当時67歳)を目の前で亡くした。「あと少し早く戦争が終われば、何人も死ななくて済んだのに……」。うつむき、悔しさをかみしめるように、75年前の夏を振り返った。 朝から空襲警報が鳴り響いていた。弘子さんは町中心部にあった「玉屋菓子店」の長女で、磐城高等女学校(現県立磐城桜が丘高)の2年生。自宅脇の用水路のそばでコメに交じっている虫を取り除いていた。 祖母や、疎開してきた年下のいとこ4人は防空壕(ごう)の中。母は警報の合間を縫って台所でおにぎりを作っていた。警報はやんでいたはずだったが、突然現れた戦闘機が、低空から機銃掃射を始めた。