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不十分な世界の私―哲学断章―〔29〕|ササキ・シゲロー
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不十分な世界の私―哲学断章―〔29〕|ササキ・シゲロー
『許し』が人と人との間に生じた出来事を、その行為によって出来事を生じさせたその人自身には還元せず... 『許し』が人と人との間に生じた出来事を、その行為によって出来事を生じさせたその人自身には還元せず、あくまでも「人と人との間に生じた出来事」として終わらせ、その人をその人自身の行為から解放する。 しかし、もしそうだとしたら、人は「何をやっても許される」ことになるのだろうか?人が出来事を終わらせるためには、「許すしかない」のだろうか? 「…許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である…」(※1)と、アレントは言っている。なぜなら「…許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているから…」(※2)だ、と。 しかし『許し』は、「許した後の関係」を、その許しという行為自体が規定し拘束するということがない(つまり『許し』とは、すなわち関係からの解放である)のに対して、『罰』は、それ自体が罰することの意味の規定であり、そのように規定することによって、「